夜になっても、まったく気温が下がらない感じだった。暗い夜道を歩いているとき、いま聴くべき音楽はピアノだなと思う。というか、坂本龍一 『async』収録の「disintegration」だなと思う。というか、すでにそれが頭の中に鳴り始めてしまう。
フリースタイルな音楽、その特長とは、演奏者が、自分の演奏している音を聴いている、その状態を隠さない演奏スタイルである、と言うことも出来るだろうか。ということは、フリーではない「ふつうの」音楽とは、演奏者が、自分の演奏している音に、少なくとも自分では気づいてないようなふりをして演奏しているスタイル、とも言えるだろうか。
演奏者はもちろん自分の演奏に精神を全集中させているが、演奏者の行為と発する音は常にぴったり一致しているから、演奏者は自分の放った音を聴き返す暇もなく演奏を続けなければならず、その音を自分で聴く機会は延々と先送りされる。
いわゆる「フリー」であるとは、その制限からは、とりあえず自由になっていると、一応言うことも出来るだろうか。すなわち演奏者は、演奏を続けなければならないわけではなくて、自分のはじめた演奏に、次の瞬間からは自分で聴き入ってしまって良く、そのあと自由に演奏に戻ったり、戻らなかったりしていい。開始から終了までを区切る作用の責任を、演奏者が負わなくていい。
しかし「フリー」はまず始まりと終わりに対して約束がない感じが、まず聴く者に対して、かえってある種の構えを起こさせる。いつまで付き合えば良いのかという不安をどこかで抱えさせられる。
しかしそれは演奏者も同じで、いま放たれたこの音に対して、自分がどう関わればいいのか、あるいは関わらなくてもいいのか、それをたえず気にかけながら、演奏の時間をすごす。
そこでは誰もが、その音がそこで演奏されたことに気付いてないふりをしてない。「フリー」を聴くとは、そのような状態であることを言う。つまり全員が、それに対して、何かしらの不安や気掛かりをかかえている。その心への引っ掛かりを「フリー」と呼ぶのか。
そのときの感じが、なぜか夜になってもまったく気温が下がらない夏の暗い夜道を歩いているときのようだと言いたいのか。
そういうわけでもないのだが、この蒸し暑さ、この湿度が、「disintegration」を記憶から呼び起こすから、そう言いたくなる。