夢を見て、それについて文章に書く場合、まず記憶にある出来事を順次、言葉であらわそうとする。その夢が面白かったとか退屈だったとか、そういうことは書かない場合が多い。ただし「自分がこんな夢をみるなんて」とか「自分はこんな幼稚な行動をしたがっているのか」など、夢の経験を自分の潜在的欲望のあらわれと見なして、その概要に言及することはあるだろうが、夢それ自体の面白さやつまらなさをわざわざ書くことは少ないと思われる。なぜなら夢は、そんなことをわざわざ言うまでもなく、見たことの面白さをはじめからともなった記憶として残っているイメージであり、夢について文章に書きたい思いとは、その面白さこそを書き留めておきたいという思いにほかならないからだ。

しかしその夢について文章に書くとき、それはどうしても記憶にある出来事の時系列的な紹介でしかない。そのような構成方法が悪いと言っているのではない。書いてる自分の記憶においては、その時系列的な流れだけで充分に面白いのである。にもかかわらず、それを同じ順序で文章化した場合、その面白さが見事に欠け落ちている。

これはおそらく、自分の記憶にある順序と、こうして文章に並べた順序とが、そのままの順序で書き写しているようでいて、実際は違うからではないか。というより記憶にある夢は、思い浮かべるときにはじめて時系列として並ぶのだが、その時点でもう夢の感じとは違ってしまっている。夢が記憶に残っているという状態は、思い出せるという状態とは微妙に違うのだ。むしろ思い出す以前の何かが残っているから、目覚めたあともまだ夢の中にいるような、あの半ば呆然としたような意識にとらわれるのだ。

だから、結局のところ夢を記述する行為はほとんど無駄というか、エピソードをメモしておく以上の意味はないとも言えるだろう。夢が記憶になる以前の時間を、文字に変換することは出来ない。