哲学

RYOZAN PARK巣鴨樫村晴香トークへ。話が始まって一分もしたらほとんど金縛りにあったのと変わらない、根源的で本来的な言葉がめまぐるしくつむがれていくのを聴いてるだけで、二時間半のトークだったが最初から許容量限界のレッドランプが点きっぱなしの状態で、とにかく必至に言葉を受け入れるのみの状態のまま、あっという間に時間が過ぎてしまった。とにかく圧倒的に凄いけど、何が語られたのかがわからないまま、あれよあれよという間に記憶が失われていく。その言葉の意味をきちんと丸ごと理解できてないのに、しかし何か強く感じられるものがあって、それに羽交い絞めにされっぱなしの二時間という感じなのだ。十年前の青山ブックセンターでもこんな感じだっただろうかと、そのときの記憶を辿ってもみたけど、その圧倒感はたぶん前回も今回も一緒だ。

(以下、僕の個人的な記憶であり解釈であるのでその旨あらかじめご承知いただきたい。)

哲学とは、言葉のリニアな感じだけでは捉えることができないということ。堂々巡り、つらい。高揚や満足ではない。幸福ではなくて、嫌な感じ。哲学はそれを、自分がわかったという風に認識することが難しい、しかしこのことを誰かならわかってくれるのではないか?というかたちで、思考を進めていくようなところがある。

フランスではアル中になりかけた、ワインに引き摺られてしまったのだと。哲学って辛いので、酒に引きずられる。プラトンの「饗宴」でも、あの連中はずっと酒ばかり飲んでる。とくにソクラテスは酒に強かったらしい。哲学者も酒を飲むだろうけど、ニーチェは酒を飲まなくても平気だったらしい、俺は酒を飲まなくても自分で自分を酩酊させ陶酔させることができる、酒を飲んだのと同じ精神状態に自分を持っていくことができるのだと。(この話を聞いたとき「もしかすると橋本治もそういう人物かもしれない」と思った。)

生まれたのは鎌倉で、育ったのは茅ヶ崎で、海のある場所が好きで、海を見ているのが好きなので、チェニジアの浜辺で波を見ていた。日本の海はとても荒々しくて波の形もリズム感も独特で、チェニジアの海は全然違うし、太陽の出る方向が違うから波動そのものが見えにくかったり、マルセイユも、エクサン・プロヴァンスも、たぶんヨーロッパの人が見ている地中海の海も違う。

じっと波を見ていると、遠くからやってきた第一の波が、手前で別の波と重なって、やがて足元まで来て、後ずさっていく。その動きをひたすら眺めている。そうすると、波の一連の動きをかなり正確に、およそ十センチ前後しかずれないくらいの精度で、かなり精緻に予想できるようになってくる。本当に波の動きが手にとるようにわかってくる。

そのとき、ニーチェの悪魔なのだ。それが出てきたときと同じことが起きてる。時間の進み方が、変わっている。

波動とは何か。しかし、ここにも転移があるのだ。人間は昔から、波とか星を見て考える。紀元前何百年前とか、最初はきっと星を見て考えていた人がいた。しばらくすると生産様式や生産力が変わってるだろうから、おのずと別の何かを見て考えるようになっただろう。

いずれにせよ波や星に転移する。人間は、電信柱には転移しないけど、宇宙には転移する。

視界がひとつの行き止まり、防御なのだ。視ることで一旦終わってしまう、のだと。