婚約

婚約しましたと言って嬉しそうに指輪を見せてくれたのは、たしか去年の秋頃だったか。いつもぼんやりしてるか、もしくは見当違いな他所の不安を勝手に身に受けてるみたいな、とらえどころのない雰囲気だった彼女が、そのときだけは大変珍しいはしゃいだ様子だった様子を今でもよくおぼえている。はしゃいでいる、という言い方は適当じゃない。高揚してはいるが、落ち着きもあり堂々としてもいた。泰然自若、かすかに困惑、しかし誇らしげ、という感じだった。ああ、なるほどそうか、この年頃の子が結婚を決めるというのはそういうことなんだな、と思った。それはこの私もついに標準化、一般化します、思うところあって、とりいそぎ世のしきたりに準拠してみます、その時期がきたようですよ、という段階を示す、そのような私を表現することがもたらす喜びなのだろうと思った。勝手ながら何となくその気持ちがわかるように僕も思うのだ。そういうのを信じてない人ほど、むしろ制度的なものに喜ぶのだ。いそいそとしたがるのだ。この世の、人の世界のしきたりを憚りながら私もさせていただきます、つたない子芝居ではございますが、どうぞよろしくという感じなのだ。そうかそうか、おめでとう。良かったね。じゃあこれから忙しいね、しっかりねと言ってニコニコと笑ったのだった。