今日の青い空の青さといったら、ちょっと言葉であらわすのは難しいとしか言いようがない。青という色は色というよりも透明ということのほうをより強く感じさせる。遠景の青を見るとき、視線はどこまで行っても何かに到達しないで、視界のさらに先の、とても届かないはずの距離まで自然に進もうとしてしまう。そのときの感じはちょっと、橋の上から落下するのにも似た、ひやっとするような恐さがある。午後になって光が少し斜め横から射すようになると、通りを人が行き交っているその影が細長く伸びて、それらが色々な方向から動いて交差して離れて、光る路面に滅茶苦茶なストライプが寄せて離れて壊れてをくりかえして、西日に射されながら動き回るものと影とのおそろしく忙しない光景になる。
馬車道駅のあたりにいて、少し時間があったので、たまたま通りがかった日本郵船歴史博物館に入る。閉館一時間前を切っていたのであまり丹念に観られなかったけど、この博物館はいい。何しろ、船の模型が、でかくて精巧でもの凄い。ガラスに鼻がくっつきそうな勢いで、模型をひたすら凝視しているだけでも楽しい。船とは必ず、船底の下は海で、その事実は昔も今も変わらない。昔の帆船だろうが、現代のテクノロジーの塊みたいな船だろうが、皆そうだ。戦前に活躍していた昔の豪華客船。なんかまるで、古代に生きた巨大な鯨の祖先の姿を見ているかのようだ。船底の下は地獄なのに、甲板の上にはここぞとばかりに華美な装飾を施して、贅沢の限りを尽くして、人間の文化のしきたりをはたらかせようとする。そういう船の上の部分と下の部分を見比べているのと、つい目が離せなくなってしまう。赤い船底やスクリュー部分の、人間の世界ではない場所で冷たく動作するものたちの姿と、階段を上がって、豪華な晩餐会が開かれる船室へつながる通路やドアや窓の様子。豆粒のように小さな人間がうろうろとしているのを想像し、巨大な模型の下に宇宙的にひろがる海水の深さを想像する。船を見ているというよりも、それ自体が死の境界線に立っている一枚の板というか、一枚向こうのとてもおそろしいものを見えないようにしてあるような物体の向こう側を見てみたいと思って見ている。