望み

ファッション系商業施設のビルに入ったら、一階のフロアの様子がこれまで記憶していた雰囲気と全然違っていて、食品とか菓子類の売り場がやけに目立つ。エスカレーターで上りながら二階、三階、四階と順々に見渡してみたけど、雑貨とか百円ショップとかが目立ち、どのフロアもやはり今までとは大きく変わった印象。紳士服の売り場をぐるっと一巡したら、なんとなくまだ開店準備前みたいな、倦怠と待機の気分が沈殿して全体を支配してるような雰囲気だった。そのフロアはまあ、対象年齢層が若くてそもそも僕が着られるような衣類は少ないのだが、それ以前にラインナップが貧弱というか売場としての構えが安いというか、前のめりな気合はほぼないというか、一応都心の駅前だというのにまるで田舎のスーパーの上の階にあるほぼ無人の衣類売り場と同じムードが漂ってる感じだった。商業活動が不活発になってきた施設において、建物の壁とか場の仕切りがやけに目につくようになる。それはみっともなくて貧乏くさい、隠蔽、改善すべきほころびだが、同時にその無目的さ無益さ無計画さゆえの自由感、期待感を揺り動かすところもある。このような状態が長く続くことを、望まない人もいれば、そうでもない人もいる。

谷中界隈を散歩していた。かすかに線香の匂いたちこめる霊園を見渡してみると、今や誰からも手入れされてないのだろうそれなりに荒れ果てた墓も見受けられる。地面が削られて、墓石全体が大きく斜めに傾いでしまっているのさえ見かけた。あれはしかし、修繕の責任は墓地管理側にあるのか所有家側なのか。まあどちらでもいいことだが。しかし歩いていると「空き地」もあるし、共同というか永代供養墓というのか、いわば「集合住宅」的な場所もある。空き地は分譲して、またあらたな家が、そこに入るのだろうか。しかし我々もすでに、墓参りの習慣をもたないし、この世から去った我々が墓参りをされることもおそらくないだろう。昔の小説に出てくるような、家族揃って墓参りをする場面を、誰かの過去として、いわばフィクションのように読み取るだけだ。我々ももはや、どちらかといえばアンドロイドの生、みたいなものか。そういえばとある故人が、死んだら骨は海に撒いてほしいとか遺言を残して、それに共感する声を多く聞いたように思ったけど、たしかに気分として、海に撒かれて終わり、そういうのがもっとも「納得できる物語」に感じられるというのはわかる気もする。

それにしても、御徒町の吉池のように、たくさんの牡蠣が殻付きで売ってる魚屋さんが、横浜近辺にないものだろうか。吉池は八時閉店だから平日会社帰りでは間に合わない。会社のそばで買って帰れたらいいのになと思う。