続ける

昭和一桁の世代、つまり敗戦直後のインフレを経験した世代は、お金というものを容易には信用できないものだと色川武大は言う。父親の恩給が二百円とかあったはずが、ミカン一山が十円みたいになってしまっては、もはやそれを信用に値するものには思えないと。
目に見えないルール、その約束ごとを自他共に守るはずだという仮説への参加意志をもてるか、いや無理だ、その金はその金でしかない。銀行に預けるとか投資とか、とてもやってられない。もっとも合理的というかもっとも確かな感触を返してくれるものとは賭博である。それを聞くと、なるほどと納得せざるをえないものを感じる。それを増やしたり減らしたりするということなら、それしかない。交換は成立しない。賭博は資本主義ではない。

賭博と資本主義的な交換のどちらが早いのかわからない。ただし色川武大的な賭博には必ず胴元がいるので、胴元と私との存在を賭けたやり取りみたいな恰好に必ずなる。20対20から、19対21に一歩詰め寄られるとき、色川武大的な賭博は激しく揺らぎ、恐れ、思考する。それを凌ぎ、19対21か18対22くらいまでの間から少しずつ回復するとき、それは勝ち負けというよりも胴元との関係性の修復・協調・維持である。勝ち切っても負け切ってもダメで、色川武大的な賭博でもっとも重要なのは、それをし続けることだ。