映画・食事

 

クリストファー・ノーランインターステラー」(Amazonプライム・ビデオ)を観る。…ところで「ゼロ・グラビティ」の監督って、クリストファー・ノーランではなくてアルフォンソ・キュアロンであるとは、知ってたはずだけど忘れていた、というか、いつの間にか混同していた。先週「ダンケルク」を観ていた時点で、この作り手の前作は「ゼロ・グラビティ」だと思っていて「インターステラー」はその前かな?くらいに思い込んでいた。「ダンケルク」の感想にその思い込みに基づく感触が、やや含まれているかもしれない。先月だかに観た「ROMA」がキュアロンであるとの認識はあったけど、あの前作が「ゼロ・グラビティ」だとは感じてなかった。

しかし宇宙に一人で取り残されるという経験は、生きていてこれほど恐ろしい体験は、そう無いだろう。まして相対性理論の適用された別の時空だなんて。生きたまま棺桶に入れられたようなもの、いやそれよりも怖い、死の位相よりも遠い、まさに真の恐怖と絶望がそこにあるような。人間は身内への愛や情に弱くて、それを越える人類愛とか大きな倫理を信じる力は近親への情に負けてしまうもので、というのもそれはそれで、仕方が無いとも言える。とはいえその近親への強い思いとか親子の愛情が、桎梏を突破するきっかけにもなるので、ただそのことも結局はあらかじめそのように規定されていたのだとしたら、いずれにせよ死の恐怖も死を越える愛情も、あらかじめ規定されているのだとするなら、そのこともそれはそれで、もっとも深くて救いのない絶望に近いとも言えるのかもしれない。知らない方が幸せだというのは、どうしたって一面の真理で、何も知らないまま、あるときアクシデントで落命するような終わりかた、それが望ましいのだという思いを否定するのも難しい。ただし当然ながらそれを、他人から決められたくはない。自分で自分をそのようにあきらめることは、自分の自由であるが、他人についてはそれぞれの自由を各自尊重しなければいけない、何の話か、よくわからなくなったけど。

ヴィム・ヴェンダースアメリカの友人」を何十年ぶりに観る。久しぶり過ぎてぜんぜん内容をおぼえてなかったのだが、ものすごく面白かった。出てくる登場人物が、どの人も皆、魅力的過ぎるし、全編に流れる空気感というか時空の織りなしてるリズム感のようなものがあまりにも好まし過ぎる。ブルーノ・ガンツデニス・ホッパーは、話が進むにつれて、なぜあんな風に、何となく友人のような、だらっとツルんだような間柄になってしまうのか、そのことが、まるで描かれない、かのように描かれている、それがすごくいい感じだ。ミノという男と接触してからの最初の依頼を実行する際の、あの流れから、その後に至るまで、こんなの絶対に成功しない、どう考えてもおかしい、ありえない、という思いのまま、あれよあれよという間に物語は展開し、最後は奥さんも後ろからついてきて、終盤で最後の片付けを済ませて、それで何がどうとか、もう良いも悪いもなくなってしまって、ああそうなの、たしかに、こういうのが、映画だったのだなあと、深くしみじみと余韻に浸るだけだ。

夕食で二年ぶりに訪れたお店、昔とメニューが少し変わっていて、コースを絞って洗練度を上げて、狙いというか方向性をより明確にした、という印象を受けた。たしかに、元々そういう店なのだ。一見、親しみやすく可愛い雰囲気だけど、じつは部分的には妥協なき高級店とも言えて、酒も含めて全部おまかせ、所要時間三時間以上かけて控えめなポーションの一皿に静かにじっくりと向き合うやり方で。支払いもけして安くはなく、その意味でちょっと危険というか、難易度高いというか、やや人を選ぶところもあるかもしれないけれども、自分としてはたいへん良かった。というか納得させられたというか、このお店の意義があらためて腑に落ちた気がした。