体調変わらず、喉の状態先日並み。このまま回復へ向かいたいところだが。

「型」の強固さ、磐石さというのは、人を拘束し、疲れさせ、気持ちを萎えさせ、自由で気楽で気ままな感覚を認めない、おそろしく窮屈なものではあるが、同時に人を規定し、その許容下での自省を許し、曖昧な記憶に確かさを保証し、進むべき道を示し、目的を見出すことのできる場所へと導くようなものでもある。

芸術の型をつくるというのは、できるだけ長持ちする歴史をつくるということである。仮構された歴史は、この私の過去と結びつき、私のよるべなき時間の流れの内に明確なクサビを打ち、目印をもたらし、今までとこれから、という一貫したパースペクティブを得ることもできる。型を踏襲し守ることは、過去をよりよく知ることと同義で、過去をよりよく知るということは現在をより正確に知ることと同義である。

何が言いたいかと言うと、正しく年齢を経ることができないものには、この私およびこの私を含む歴史を理解することが難しい…ということである。この私という「型」を私自身が正しく知らない(納得していない)ままでいるのは、悲惨である。
この私を正しく知る必要がどこにあるのか?といえば、これは、迫り来る死に対して自らのふるまいを決めるためであろう。ふるまいというのか、決め技というのか、ポーズというのか、とにかくそんな、来るべき死にあたり、私は自分をどう認識すれば良いか、そのときに困惑、狼狽がうまれる。思ってたのと違うなあとか…そんな思いに囚われて、じたばたしたくなる。

世間で、中高年がワケのわからない行動に出たりするのがニュースになったりするのを、…昨今の僕は、個人的に他人事と思えない…。

かつて、思春期の肉体が自分を平然と裏切って、勝手な意志で変貌をはじめて、それに自分が苛まれたのと同じように、老化、衰弱していく肉体が、再び自分を突き放そうとする。いま、この生で二度目の、自分が自らの肉体と相対する時期にいる。

白洲正子お能」。これを極端なストイシズムではない、別の読み方で解釈できないだろうか。この私の、まるで思い通りにならない、今この肉体との闘いこそが、生きるということなのかしらと。

十二、三になるとしだいにいろいろのことを自分でわきまえるようになり、欲も出てきます。相当に舞や謡がじょうずだと、悪いことはかくれてよいことばかり目につき見物には受けます。生長ざかりですから教える方にとってもやさしく、芸ものびる時代です。この時に教える方も習う方も正確に、しかも厳格にせねばなりません。「十で神童、二十で才子」と下がるかも知れないたいせつな時であるからです。

十七、八のときはまたたいせつです。声がわりの時期ですからまず美しい声で聞かせることができなくなります。身体も半分おとな半分子供のような平均のとれない形となるので、見せることもできなくなります。十二、三のころにひきかえて特異の絶頂から谷底へおとされたような気がしてひじょうに不安を感じます。その不安な気持ちはすぐに見物につたわります。いくら見物にあざけられようとも、一生の境めはここであると決心して、やけをおこさぬことです。このくらいのことで、お能をあきらめてしまっては何にもなりません。お能の名人になるには、先々もっと苦しいこと辛いことに出会うものと覚悟をせねばなりません。

二十四、五になるとはじめて世のなかが見えて来ます。これまではまだ海のものとも山のものともつかなかったのですが、この時代に芸のゆくえがはっきりと定まります。声も身体もりっぱなおとなになったのですからふたたび見物にもてはやされます。この時代にいちばん気をつけなくてはならないことはうぬぼれないことです。見物の目につくのは「若さの美」であって真の美しさではありません。世阿弥はその美しさを「初心の花」と名づけます。その「初心の花」ともいうべきものを「真の花」誤認する危険があります。うぬぼれと芸に対する自信とは違います。たとえ人にはおだてられてもこの時代にしっかりと練習をつむべきです。芸道における自分の位置をはっきりと認識することによってこの時代の「初心の花」ていどの美しさは一生消え失せるものではありません。

三十四、五はさかりの絶頂です。芸は三十四、五までにあがるのであって、それから以後はさがると思わねばなりません。四十から先は肉体的におとろえるのですから、この時までに自分の姿に自信が持てない人は名人になるみこみはありません。過去をふりかえるとともに未来の方針をしっかりと定めることがこの時代においてされなければなりません。

四十四、五になると下り坂にかかります。今までとはやりかたを変える必要があります。登りと下りではスキーのワックスでさえつけかえる必要をみとめます。肉体的におとろえるのですから、骨を折らずにしかも美しく見せなければなりません。それにはくふうがいります。なるべくひかえめにすることに重きをおくよりほかありません。ひかえめにしてもなお美しさがみとめられるならば、それこそ「真の花」ではあるのです。

五十以後の老人は「何もせぬ」よりほかにテはありません。外面的の美しさはことごとく失せたのですから、その点で見物を魅する何物もありません。残るものは「真の花」のみです。枝も葉もすべて散りつくした老木に「花」のみは散らずに残るのです。そこに至ってはじめて何にも飾られぬお能の純粋な美しい姿があらわれます。

以上