いつか来た道

ついに図書館にもスーパーなどと同じような「自動貸出機」が導入された。借りたい本を持ってバーコードをスキャンして、会員カードをあてれば貸出完了である。まあ、便利と言えば便利か…。ピンチョン「スロー・ラーナー」の冒頭を立ち読みしてたらものすごく面白くてそのまま借りて帰って、冒頭"イントロダクション"から"スモール・レイン"、"ロー・ランド"まで読んだ。

"イントロダクション"は、つまり自分で過去の自作品に対して容赦なく"罵倒芸"を披露してるのだが、これがサービス精神旺盛で、爽快感抜群で、辛辣な自己批判の合間に、文章を書くにあたって決してしてはならないこととか肝に銘じるべきこととかを差し挟んで、見事な手つきで整理して指し示してくれている。

ぼくらは歴史の推移点にいた。ビート以降、妙なことに、文化の進行は二手に分かれた。どちらの道を忠実に歩んでいくべきなのか。バップとロックンロールが、スイング・ミュージックと戦後ポップスに対立し、それと同様の対立関係が新しい制作と、ぼくらが大学の手ほどきをうけていた正当なモダニストの伝統との間に成り立った。不幸にして、より直接的な行動の選択肢はなかった。ぼくらは傍観者だった。パレードが過ぎ去ったあとで「おふる」をかき集めるだけの存在、当時のメディアが与えるものを消費するだけの存在に、早くもなっていた。だからといって、ビート的な構えや小道具を身につけなかったわけではない。しだいにぼくらはポスト=ビートとして、結局は冷静に穏当に、みんながアメリカ的価値と信じたがるものを肯定するようになっていくのである。十年後にヒッピー・カルチャーが起こったとき、ぼくらは短期間であれ、すっかりノスタルジー・モードになった。なにか自分たちの正しさが証明されたような気持ちで、ビートの預言者が復活するのを、アルトサックスのリフだったものがエレキギターで演奏されるのを、東洋の叡智がファッションになって戻ってくるのを見ていた。同じだった。--違ったけれど。

別にこの箇所がとりわけ面白いというのではなくて、前述した話とはまた違うことを言ってる箇所ではあるが、それにしてもピンチョンがこんなにわかりやすいことを言ってくれるだなんて、ありがたいけどやや狼狽える。で、そうか、やはり誰もが、ビート世代はヒッピーに"過去の再来"を見るし、ヒッピー世代はたとえばレイヴとか九十年代のある時期に"過去の再来"を見るのだろうし、おそらく五十年代の労働争議を闘った世代が、その後の学生運動などに見るのも同質のものだろう。若者に限ったとしても、第一次大戦だってある意味「ある種の期待」だったのかもしれないし、第二次大戦も「期待の再来」だったのかもしれない。そうやって皆が「いつか来た道」と思って、そして毎度「--違ったけれど」と、後になって思うのだと。