一人で


一昨日のことだが、あなたは位牌にちっとも祈らないと妻に言われて、まあ、たしかにと思ったのだが、手を合わせて祈るという行為を、僕はどうもぎこちなくしか出来ないようなところがあり、そのときふと、小津の「小早川家の秋」に出てくる団令子が、中村鴈治郎の遺体の方を向いて、手を合わせた後に、キリスト教式に十字を切ったり、かなり適当なことをして、そそくさと恋人と遊びに行ってしまう場面を思い出して、そんな話をしたら、妻が久しぶりに観たいと言う。僕は「小早川家の秋」はわりと何度か観ているので、また観るのか…と内心思ったが、いざ観始めると「小早川家の秋」はやはり素晴らしい。ため息が出るほど素晴らしい。中村鴈治郎浪花千栄子との世界、造り酒屋の従業員たちの世界、新珠三千代が司っている家の中の世界、原節子と次女の司葉子が作っているとくべつな世界。それぞれの世界の次々と繰り広げられるのを陶然として観てしまう。それにしても、この作品での原節子が演じる未亡人の何という力強さ、何の寄る辺もない暗闇へひるまず向かう果敢さだろうか。そんな気合の篭ったことではなく、平常の涼しい顔で「このまま、一人で生きていく方法が、あるような気がして、それをやってみたいの」とか、そんな台詞を中盤に言うのだ。もう、ここだけでこみ上げるものがある。ほんとうの意味で「新しい人」は、こんな風にいつも普通で地味で何事もないかのように見えるものか。本作の原節子は、この世界に存在するすべての「一人の人間」の味方だ。


それにしても、ようやく父の初七日を過ぎたあたりで、わざわざこんな葬式映画を観るのだから、我々もアレだと思うが…ちなみに現代の火葬場は、この映画みたいに煙突からモクモクと煙は出ないようになっている。これは現代の、現実の、先々週の話だが、火葬のとき、姪の子がお父さんと煙突を探しに行って、スタッフの人に「煙突はないのよ」と言われたらしい。


今日、寺に電話。フレンチレストランでもなく、イタリアンでもなく、寿司店でもなく、寺である。あなたは寺に、予約の電話をしたことが、ありますか?僕は生まれてはじめてです。(葬儀屋への連絡はたぶん臨終を確認してくれた親戚のKさんがやってくれたのだろう。寺への連絡は葬儀屋なのかKさんなのかはわからず。)とにかく、何が怖いといって、お値段の相場がぜんぜんわからなくて、メニューもプランもなくて、明朗会計には思えない店に電話するのが、いちばん恐ろしい。でも実際は、それほど怖くはなかった。