敗戦後論

加藤典洋の「敗戦後論」を読んだ。初出は1995年とのこと。

過去の戦争について、総理大臣がアジア諸国への「謝罪」をし、その直後に大臣が南京事件について「失言」するような状況。これを戦後の日本という国家が国家として「多重人格障害」を患っている状態とし、現状では謝罪にせよ失言にせよ、国家が国家的な主体として実像を結べぬまま、あやふやな人格の中でジキル氏とハイド氏が交替に表裏を返しながら語っているだけであるとする。この事態を招いた原因は武力による恫喝によって平和憲法を押し付けられた過去にはじまり、築かれた戦後民主主義と経済と外交に巣食う「ねじれ」を見つめようともせず無頓着なまま過ごしてしまえる無神経さにあり、つまり戦後の我々が根本的に「ねじれ」ており「汚れ」ているという自覚を欠いている点にあるとする。

敗戦国における戦死者は、敗戦国=悪であり犯罪国として加害責任を負う国に属する死者であり、生きている者も同様であるとの認識をもつこと。戦死者はすべて、愚劣で無意味な死を死ぬより他なくそのように死んだという事実、負けて、汚れて、ほろんだという事実を、正しく認識すること。その悪から善を作り出そうとすること。愚劣さを受け止め、変わろうとすること。その場所からでしか物事ははじまらず、国家的な主体はその地点に立ってはじめて死者を悼む準備をととのえることができ、加害国としての「謝罪」も、その地点においてはじめて可能になるのだと。

すなわち現行の日本国憲法は一旦、国民投票なりを経て日本人によって再び選びなおされなければならない、その際に平和憲法としての条項が外れてしまったとしても、生きた憲法として本来の機能を担うものになるのであれば、今よりよほどマシであると。

戦前から戦後へと至る当時「ねじれ」から目をそらさず、変節や盲目性に陥ることなく一貫性を示し得たと著者が考える事例として、憲法学者美濃部達吉、作家の大岡昇平中野重治、そして太宰治等のケースが紹介される。このへんの話はとても面白い。

全体的に、すごく昔の、往年の香り漂う、堂々たる文芸批評を読んだ、という感じだった。