MOT

東京都現代美術館で、石岡瑛子「血が、汗が、涙がデザインできるか」と「MOTコレクション 第2期 コレクションを巻き戻す」を観る。石岡瑛子展の方はまるで「資本主義を闘う女武将」が、凄い圧でグイグイと迫ってくるようで、おどおどと周囲を見回しつつ各展示室を通り抜けるような状態ではあった…。しかし優れた能力をもち世界レベルの仕事を担えるだからこそ、最期まで徹底的に奮闘しなければ生きていかれないというか、ホンダやソニーではない個人(日本人?)クリエイターの哀しみというか、会場後半にはうっすら寂寥感を読み取りたくもなるような…。しかし最後の展示室で、上京前の高校生時代に作った手製イラストブック「えこの一代記」が、掛け値なしに素直に、これが全作品中でもっともすばらしいのではないかと思った。卓越した才能、センスの良さに惚れ惚れした。

それにしても、70年代以降に隆盛を誇ったPARCOというデパートのパワーについてあらためて思い起こした。あれはデパートではなくて文明そのものみたいな雰囲気をまとって、当時関東一圓にいくつも出店されたのだった。どのような写真であれイメージであれ、PARCOという五つの白文字アルファベットを重ねて図版にしてしまえば、それですべてがPARCOになるという感じがしたもので、それだけで自分にとってはおそらく最強にして絶後のものに感じられた広告だった。(それは90年初頭なので、すでに石岡瑛子がポスターを手掛けていた時期ではないけど。)あの時代、およそ自分の興味の範疇であれば、池袋をうろついていれば大抵のものがここにあると感じられたものだ。

コレクション展はいつもの日本近代美術黎明期に位置付けられる国内品からはじまる。ただし初見あるいは久しぶりに見た作品も多かった。関東大震災直後の、焼け野原になった東京各地をモチーフにした鹿子木孟郎の素描の、短く朴訥とした線の集積で具象性を極端に落とした表現はいつ見てもすばらしい。明治~大正期に描かれた風景画には、近代文明化された東京とすべてを焼き尽くした東京が、ほぼ同じ視点と形式で捉えられている。震災を被っても東京の景色というモチーフはまだ画家の描く意欲のよりどころとして機能した。というよりも描く意欲の基盤・プラットホームとして機能した。これが断ち切られリセットされたのは、やはり敗戦による。敗戦で東京はふたたび焼け野原になるが、この変容は震災直後とは似て非なるもので、残された作品を観ていると、それまで継続していた何かがやはりここで一旦、息の根を止められている感がある。一九四〇年代に描かれた作品群のどこかに、その断絶の直接的な傷跡が刻まれていないものかと、毎度無駄だとは知りつつ目を凝らして探してしまうのだが、むろんそんな目印はない。まさに負けたとはこのことで、完全に断たれたのだと。そしてそれは、いまだに止まったままだとも言える。止まっているのが良いとか悪いとかではなく…いや、良いとか悪いとかの話なのかもしれないが、なにしろ美術館で国内近代以降の美術作品を観返すというのは、どうしてもナショナリスティックな意志を呼び起こし、そこにある種の不足あるいは不徹底を感じ、その不満足を克服すべきもののように感じてしまう、それは欧米に追い付け追い越せとかではなくて、ある統一的な自己としての継続を欲する、主体としての、自己同一の欲望に近いのかもしれない。何かそんな風に、心をけしかけてくる何かを感じて、しかしそれはどうなのか…という疑問も沸く。何しろ展示の後半はいきなり巨大なジャッドやステラ他巨大な戦後アメリカ美術の壁を経て、最終室の宮島達男で終わるいつものパターンなのだし。