久保さん

合コンをした。高校二年のときだから、今から三十年以上前である。僕が通っていたのは男子校で、わりと仲の良い五人くらいの友人たちと、どんな経緯だったのかはわからないけど、どこかの女子高の子が五人で集まって、それで多摩の奥の方にある山の中の巨大迷路みたいなところに行って、そこで男女一組ずつペアになって、どの組が一番先にゴールするか競争するみたいな、他愛もないようなことをした。そのときに僕とペアになったのが久保さんだった。彼女のことは今でもなんとなくぼんやりとおぼえている。なかなか可愛いというか、それなりに魅力的だったのかもしれない。というよりも当時の僕はそのように同年代の女性と知り合って仲良くするような経験がほぼまったくなかったので(当時の基準から鑑みてもきわめて奥手な男子だったので)、相手が可愛いから楽しいとかそんな感想以前の、妙なぎこちなさと身の落ち着かなさでそわそわしていただけみたいな状態だったと思う。

あるいは今もその気はあるのかもしれないが、若いときの僕は、ことに女性に対して異常に観念的な考えをもっていて、というよりも当時の僕にとって、その人生において一番重要で優先されるべきことは絵にほかならなくて、それは美大に行くとかそんな進路のことを遥かに超えた思いとしてあって、なにしろ自分は芸術家として絵に命を捧げる、絵というものに奉仕し、身も心も絵の中に燃やし尽くしてしまえば良いくらいの(いかにも高校生的な)気合っぽい思いはあって、そういう考えが土台にあって、女性というのはまず描かれる対象であり美であるとの思いがあり、しかし多くの若い男がそうであるように、ふだん道行く女性たちやで電車や町中で目に入る女性たちは誰も皆美しく魅力的だったので、そのことに悩み苦しみもし、そのうちに女性を強く観念化してしまって自意識と混濁したぐしゃぐしゃな鬱陶しいところへずぶずぶと落ち込んでいったのだと思う。

そんなときに合コンをして、たまたま久保さんと、地図を見ながら迷路を抜ける遊びをやって、あのときに、いわばはじめて観念や一般ではない現実の「その君」という存在を知ったようなものだったなあ、と当時を思い出して思った。「その君」、との言い方は上手くないけど「この私」ということと同じように、ほかならぬ今ここにいる君、という意味で、「その君」と言ってる。

一応ことわっておくが、これは恋愛感情とは少し違う。そのようなものへ萌芽していく可能性もあったかもしれないが、もっとそれ以前の、例えて言えば、子供がはじめて犬や猫の様子を見たり毛並みに触れたりしたときにおぼえる感触というか、あくまでも静かで恐れも少しあるけど悪くはない感覚をじっと味わっているような感じに近い。毛並みと言えばたしか久保さんはその日、白いふわっとしたニットを着ていて、その清潔なニット生地が晴れの日の太陽の光を跳ね返していたのをおぼえている。

しかし久保さんと一緒だったのは、その迷路からゴールするまでのせいぜい二十分くらいの時間に過ぎなかったのだ。そのあと皆でどこかの店で夕食をとったのだが、そのときに僕は久保さんと話をしたかどうかまったくおぼえてないし、また次回もやろうよと言って解散したあと、男たちだけで感想を言い合ってるときに、またいかにも高校生らしいのだが、あの女の態度がムカついたとか、あいつらとはもう二度と会わねえとか、誰かがやたらとケツの穴の小さいことを言いだして、それでも次回はボーリングをしましょうみたいな約束はすでに交わしてしまっていて、僕はそれなりに行く気があったけど、他のメンバーはすでにやる気のなさがありありと見えた。まあ要するに、好みの子がいなかったのだろう。それで、なぜか僕が後日、二回目の開催を中止する旨を相手先に電話で伝えることになってしまう。

それで僕は久保さんに電話して、中止を伝えた。なんかメンバーの都合が悪くて、とかなんとか、かなり苦しい言い訳にもなってないような言い訳をした。久保さんはかなり意外そうに「え?中止?延期じゃなくて。」と言った。「そうだよ。」と言うと久保さんは「…わかった。」と短く応えた。

「でも、もしよかったら、僕たち二人だけで会おうか。」…と、今の時点で記憶をたどりながら、なぜそう言わなかったのかと思わなくはないし、三十年も前のことなのに、思い出したらぼやっと胸の内に軽い後悔の念までわいてくるのには我ながら笑ってしまうけど、当時の僕がそんなセリフを絶対に言うことはない、というのは今の僕がいちばんよく知っているのだ。言うわけがないのだ。当時の僕が、どれだけの熱意で女性というものを、そのイメージを頭の中の幻想彫刻のようなものに仕立て上げていたか、ロートレックを観て、エゴン・シーレを観て、坂口安吾を読んで、まるで身を守ろうとするかのように、どれだけ観念的であることに固執したことか。あれは僕を知る僕以外、誰も知らないことだし今後もそうだし未来永劫そうだ。

久保さんという人とはだからそれっきりだったし、それ以降今までまったく記憶から消えていて、今日なぜかふと思い出したのだけど、高校のときの、脳内モンスターのようだった当時の僕にとってあの人は、ちょっと異質な、しかしそれこそがじつは現実というものの感触をたたえたふつうの女性の実質として、ふとあらわれてたちまち消えた人だったのだなと思った。

このような回想としてあらわれてくる女性は、多かれ少なかれ常に甘美だしやはり観念的なものになるので、その意味でこんな話はやはり性懲りもない愚かさであるが、でも久保さんの現実性というのは、その後の僕が結局は向き合わなければならないことになるもので、それが彼女に限らない現実の誰かという存在であって、まだ子供だった僕にとっては、いわば彼女がそのささやかな予告編だったということなのだ。