眼差し

ポール・オースター「ティンブクトゥ」読了。ああ、これは寂しい…。死の孤独、というよりも、存在してる時点で、誰もが今こうしていること自体、すでに孤独だ。

本書に関係ないけど、死んだらそれまでで、後には何もなくなるなんていう考え方は、正確で客観的だと言えるのか。「それまで」とか「何もない」は、あなたが考えたのではなくて、それこそ借り物のイメージではないのか。

客観性とは何か。それは人間が、わが身の寂しさを紛らわせるために作った仕掛けのことじゃないか、単にそれだけではないか。犬のミスター・ボーンズによって語られるこの世界は、この犬の主観のなかに存在していて、夢のなかで目を開くと、そこにあらわれる飼い主ウィリーの語りかけてくる言葉を聞き、その対話を通してミスター・ボーンズは自分自身の行く先や方向を決める。そのときウィリーの生死は問題じゃなくなる(そもそもウィリーは本当に死んでしまったのかどうか、この小説ではそれを外側から知ることができない)。生きている人たちよりも、死んだとされる人と、いつも自分は一緒にいる。

たぶん誰もが、そのように夢の中で、ここには存在しない誰かと対話しながら、生きて死んでいく。誰かによって生かされているというよりも、誰かの仕事を引き継いでいるということか。だから夢の中でしか出会えない誰かに会う、生に目的や意味があるとしたら、そこにしかない。

しかし…、その死の直前まで語り合うのが、死ぬまで生きるということだとして、それを思うと、その孤独さと寂しさに思わず呆然となってしまう。それは、人間の幸福、人間が望みうる一番の幸福それ自体を、外から見たときの姿がまとっている寂しさだろうか。にもかかわらず、それが幸福だと感じている、そう思えるとしたら、それはいったい「何視点」なのか…。