RYOZAN PARK巣鴨の樫村晴香トーク(二回目)を聴く。最初にA3の紙一枚に印刷された、今度の文学界12月号に載る最終稿らしいエッセーが配布され、読んだらものすごい文章だったのでかなりの衝撃。部分部分ですごい表現があって、その言い方の速度に打たれるという感じだ。
まずは保坂和志「読書実禄」の三章から受けた印象をきっかけに話がはじまり、終始すごくリラックスして、ある意味散漫で話があっちこっちに飛び、、どちらの方向に転ぶのかが、ぜんぜんわからないままの二時間が終わった感じだったが、それでも「謎」は多かった。というか、ずっと未知への旅をしているかのようだった。以下、当方が思ったこと。
ボクサー犬のこと、レバノン人のこと、「卑猥さ」、「下品さ」について、時間が止まるということについて、また幾度も出てきた、「女」という言葉。今ここで言葉にされている「女」とは何だろうか、と思った。今日この場所で樫村晴香さんが言う「女」という言葉が、僕が思っているそれとは違う何らかを含んでいる、今の樫村晴香さんの認識のうちで、また別の意味を担っているような気はした。それは「卑猥」と「下品」も、そうかもしれなかった。ふつう「下品」なやつとは何か。それは「たとえばこんな感じのこんなやつ」と示すと「ああ、はいはい、いるよね」と共有できるようなやつのはすだが、樫村晴香さんが語る韓国人の「下品」なポン引きは、そういう感じではなかった。むしろその「下品さ」に、やや魅了されているのではないかとも感じられた。
ラオスも、中国もそうだし、とにかく日本になくて外国にあるものが、確実にあるのだろうと、あらためて思った。少なくとも樫村晴香さんは、日本では哲学はできないと昔から思っていたので、フランスへ行った。言語だけなく、その民族固有の感覚や意識があり、本来それらに互換性はない。韓国人のつくる美術作品をアジアの一部の人間が鑑賞するのと、ヨーロッパの人間が鑑賞するのとで、同じものを受け取ることができるわけではない。外国へ身を置くことで、その違いを知ることはできるのだろうか。
最後に「課題」として挙げられていた三本の映画について。ことに「キラー・インサイド・ミー」が候補に挙がった理由を知りたかったのだが、つまりあの殺人鬼の主人公が、「欲望が終わった」あとの人間に見えると。そこに樫村晴香さんが、あの撲殺する場面の抑揚や感情のなさ、あれはサディズムですらない、ふつうありえないあの展開に、自身の指向との近似性が見える気がする、というような意味のことを仰っていたと思う。このときは、会場全体がシンとしてしまったような感じだった。