形式

 

つまらない本を読んだり、つまらない映像を見なければいけないことが(仕事で)ある。そういうとき、内容以前の、本とか映像という形式の形式としての違和感というか、嵩張る感じというか、それ固有の齟齬感のようなものを強く感じやすい。つまらない本や映画は、どちらも早く終わってほしいと思うが、それはつまり、その形式に付き合うのをやめたい、その形式に自分を合わせているこの時間が早く終わってほしいと思っている。逆に、内容や描写が退屈だったり納得できなかったりしても形式そのものに違和感を感じない本や映画もある。通常はそういう本や映画のことを「つまらない」とか「自分には合わない」とか思うのだが、今ここで言おうとしている本や映像は「つまらない」とか「自分には合わない」というレベルのさらに下ランクに位置するということだ。

そのレベルでつまらない本や映像の場合、ちょっと反則を冒してでもそれに拘束される時間を減らそうと試みるのだが、そのとき多少なりともプロアクティブな、先回りした攻めの姿勢をもって事にあたることを許容してくれる形式はやはり本だ。あれははじめからおわりまで、どこを開いてもどの順序でもアプローチが許されている点で非常にすぐれている。それにくらべると映像の何というリアクティブな対応以外を許さぬ頑なさだろうか。もちろん操作レベルでは再生スピード変更もスキップも逆再生もできるかもしれないが、そういう問題ではない。あれは本当に、絶望的なまでにその場の時間がそのまま流れていて、それ自体に異なる時空から接することは、本質的な意味でできないのだ。あれはまさに、そのときのその時間をそのまま再確認するだけなのだ。それは、ある意味ほんとうに死ぬほどつらいことだ。

しかしそれこそが映像という形式の美徳であるとも言えるのだ。すべてをあきらめて、目の前の画面上に漫然と流れる時間を受け入れているだけの状態にあるとき、そこに不思議な愉悦感が生じてくる。ただ見る、それだけしか出来ない悲しみの底から湧き水のように染み出してくる不思議なよろこび。