小説のタクティクス

佐藤亜紀「小説のタクティクス」を読んだ。戦略(ストラテジー)と戦術(タクティクス)という言葉があり、戦略は長期計画、企画構想、おおまかな目的の提示を示し、戦術は戦略を実現するためのさまざまな施策ということになるだろうか。これを作品の「形式」「様式」に引き合わせて、「様式」の問題について検討しているのが本書だ。(同著者「小説のストラテジー」という本もあるが自分は未読)

「形式」は使いまわすことができる。「形式」は批判し辛い。作品とはつまり形式そのもの。それは鋳型のようなもので、作品が作られるとは、鋳型が作られるということなのだが、当然鋳型の中には何かが入っている。その内容物は、鋳型をその形にした蝋型のようなもので、その蝋型が「様式」である。

作品はその時代や環境や条件に応じた蝋型をもって作られる。しかし時間の流れとともに蝋型は流れ去り、あとは鋳型だけが残る。時代を経て誰かに鑑賞される作品は鋳型としての作品だが、そこに再び固有の蝋型が流し込まれることになる。それがその時代固有の解釈にあたる。

数百年前につくられた作品の内容物(蝋型)を、今完全再現することは出来ないしする意味もない。しかし勝手な蝋型を思い浮かべることも出来なくて、鋳型のかたちからそれは想像されるしかない。

本書は「現代(近代以降)」の作品に要請される蝋型=「様式」とは何か?を巡る本だと言える。私が人生を自らの意志で選択し、それを生きる、その過程において私が私の同一性を見出す、そんな生こそ、私が私の「顔」をもつということだとしたら、近代という時代は一人一人がそれぞれ自分の自由意志において「顔」をもつことの出来る時代のはずだった。ところがそれはどうやら不履行の空約束で、近代以降の人間はことごとく「顔」を失い、すなわち「個」としての存在価値を奪われ、ひたすら動員され、組織化され、大量死させられ、消滅させられる、その数値的な記録がのこされるに過ぎない、それ以外の存りかたは許されない、それをいち早く表現の遡上に乗せた美術作家、画家たちがいる。たとえばオットー・ディックスやココシュカ、あるいはエゴン・シーレなどのドイツ表現主義主義派が示した、既成美からの逸脱をおそれぬ人物および顔の表現。または映画におけるリーフェンシュタールエイゼンシュタインの群衆表現、スピルバーグシンドラーのリスト」から「宇宙戦争」にいたる「顔」取り扱いの変遷、そんな時代状況の反映としての表現の変化が指摘される。

タイトルと違って、本の半分以上を読み進んでも美術と映画の話しか出てこないところがすごいのだが、では斯様な時代において小説に如何なる様式が可能なのかが、満を持してという感じで終盤でいくつかの小説作品、ナボコフ「ベンドシニスター」、ジョナサン・リテル「慈しみの女神たち」、B・E・エリス「アメリカン・サイコ」、日本では伊藤計劃虐殺器官」、佐藤哲也「妻の帝国」などが遡上にのぼる。

薄皮一枚下に混沌・深淵が渦巻いているのがこの世であり、近代以降の世界である、そんな危機的な認識をもたざるを得ない人間と、そんなことには思いもよらぬ人間がいる、その断絶も含めて、今の世界がある。国別はもとより民族間、英語圏と非英語圏、その他さまざまな条件があり、危機意識や要請の差異がある。俯瞰という視点はもう無理ということでもあるだろう。