小林信彦「小説世界のロビンソン」における「物語」についての自解釈(拡大/誤解釈を含む可能性あり)。

読者を小説へ引き入れる力は物語に拠っている。物語とは、あらすじではない。また形式でもない。物語とはいわば小説的言語の効果であり、それはこれと名指すことも切り離すこともできない。

小説の読者は、記憶の減衰と復活の繰り返しによって、頭のなかに形作らせた世界を重層化させる。それらは振り返って思い出されるよりほかない。今読んで思い浮かべたイメージと、それが後になって再度思い浮かべた同じイメージとが重なり合い、連続体のような系列を成しつつ、各要素が関連づき干渉し合い響きあう、その運動のすべてが、小説全体となる。

小説の面白さに囚われ読み耽る、人をそのような状態に陥らせるのが物語の力である。物語を「わかる」かどうかは、結局センスである。わからない人にはわからないものである。

物語を分類することに意味はない。また神話や民話を構造分析することと、小説の物語構造を分類することは、似て非なる行為である。

物語とはつまり長編小説が必要とする「力」である。短編小説と長編小説は根本的に違う表現形式とも言える。一挙には捉えることの出来ない、全容を想像することが不可能な、人の記憶の限界特性を利用して仕掛けられる形式(長編小説)を成り立たせる力を、物語と呼ぶのだと思われる。

長編小説とは、その始めから終わりまでの過程に、さまざまな強弱、明暗、密度の違いを含むものだ。短編小説と長編小説の大きな違いは、長編小説が人間の記憶領域を大きく越えたスケール感で、蓋を開けてはじめて作動する装置のように仕掛けられているところにある。作者にもその効果は事前把握できない。長編小説を読むなら、誰もが小説の始まりを必ず通過するけど、始まりとは誰もがそれを忘れる、あるいは意識できなくなる要素で、それが必ずどこかで、失われた懐かしさをもって思い出されるもので、そのようにしか小説の始まりは記憶されないし、長編小説の終局は、それがどんな小説であっても、それを読むときに必ず「もう失われた」との寂寞感をともなう。

つまり読んだ現在は失われる。しかしそれを経由してきたことは確かだとの記憶だけが残る。そのような時間の経過を体験するための物語の運動が、長編小説という形式によって可能となる。