完成品

絵でも小説でもそうだが、完成品というのはいつでも「すごい」「なぜこれが実現出来たのか」と言った驚きと「まあ、こういう感じだろう」「驚きはない」「わかる」と言った安心というか退屈に近い思いと、それが同時に去来する。誤解を避けるために付け加えると、完成した作品としてすごいものとそうでないものがある、と言いたいのではない。優劣は厳然としてあるだろうが、それ以前に、どのようなものだろうが、それが完成品として目の前に供され、それに触れ始めた時点で、どれほどの傑作だろうが凡作だろうが、等しく一様に「すごい」と「わかる」が共存すると言いたいのだ。いや、むしろすぐれた作品であればあるほど「すごい」し「わかる」のだ。

 

それが、そのように完成した事実を確認しているとき、「なるほど、そうか、でもそりゃそうだよな」と、実に簡単にふに落ちる気にさせるのが、すぐれた作品であるとも言える。ある絵を観て、激しく興奮するというのは、たまにある。心拍数が上がり、ソワソワと落ち着きをなくす。目のまえで実現していることが、信じられないとの思いで頭の中が混乱する。作品に触れ、そんな経験をすることは稀にあり、それは幸福なことだが、これなどはつまり自分の脳内で「すごい」と「わかる」の激しい衝突が起きているということだろう。

 

まだ何も書かれてない、何も意味を結んでない状態のキャンバスや白紙の地点を思い浮かべたとき、完成品というのはすごいことだと、つくづく感じる。まだ何の行為も受け入れてない状態の支持体は、いわば「すごい」そして「わからない」ものだ。そこに何かしら行為を刻むことで「わからない」を消していく。それは「すごくない」行為だが、なるべく「すごい」を消さないよう細心の注意を払いながら「わからない」を消していく。厳密には「わからない」もなるべく消さない方が良い。できるだけ何かかしらの行為を刻まない、できるだけ何もせず「すごい」「わからない」のままが良い。しかしそのままではそれこそ、すごくてわからないままなので、最低限は何かしなければならない。しかもそれは倫理とか道徳とか心の問題ではなくて、あくまでも技術の問題である。完成品というのは技術の成果として「すごい」し「わかる」もので、それ以外ではあり得ない。