土壌

すぐれた芸術家だけが、新たなスタイルや、新ジャンルを確立したりする。ときにはそれが、時代の節目になり、音楽史や美術史や文学史に、新たなページを付け加えるだろう。

すぐれた芸術家の作品を鑑賞する我々はそれを観て、このスタイルを史上はじめて実現したからこの作家はすごいのだと思う。それはたしかにそうだが、しかし厳密にはそうではない。このときに、この場所と時間において、この作家を経由して、このスタイルが受肉した、事実としてはそれだ。その結果が、これほどすごいことになったのはなぜか?ということを、考えなければいけない。

史上初で、そのスタイルを発見した作家と、二番目にそのスタイルを発見した作家は、徒競走の一番と二番の関係ではない。そのような順列の価値ではないし、一番目がいたから二番目が生まれたという因果関係でもない。

それは例えるなら、植物の発芽に近い。地域や気候の違い、国家や民族性や文化など環境の違いをとびこえて、なぜ同じ種が発芽したのかが問題になるのだ。

個別に、種のなかに自らを発芽させるための土壌がつくられていた。だからこそ非同時多発的な萌芽が起こるのだ。だから種である作家は、自分自身を発芽させるための土壌を、自分の内側に溜め込む。相互の交通はないのに、同じような萌芽を呼び起こす、時空を越えた不可視の通信がありうる。たとえばクマガイモリカズは、そのような作家であったと推測できる。

そのことと関係する事柄なのかはわからないけど、年齢を経て老年を迎えようとする作家が、さらに仕事を続けるならば、教養は必須である。

というような話を、五年前に岡崎乾二郎がしていたのだと思う。以下に忘備として書いたものはおそらくそのような話だったのではないかと思う。

https://ryo-ta.hatenadiary.com/entry/20180113/p1