感覚

目薬を挿すと、香りがする。とくにサンテFXは、かすかに墨汁を思い出すような香りがよくわかる。鼻から嗅いでないのに、顔の奥から外側へと、香りが抜けてくる感じ。目も鼻も耳も口も、内部でつながっているのがわかる。ハナノアという鼻孔内洗浄液があるけど、あれを使うとき鼻の孔に容器を突っ込んで液体を注ぎ入れて、顔を傾けると片方の鼻から液体が出てくる。しかし顔の角度や呼吸の案配等、多少経験を積まないと上手くいかず、油断すると鼻から飲んだみたいに喉の奥へ行ってしまうし、その液体が目や耳の奥にまで浸潤した感触も感じる。ずいぶん後になってからその液体の香りが、ふわっと鼻孔内に感じられたりもする。

部品とか機能の一部が少しずつダメになっていうというのが老朽化ということで、自らの崩落過程をリアルタイムで観察し続けるのが、中高年的な感覚ということだ。とはいえ、子供の頃より現在の方がよほど状態の良い部位も、ないことはない。僕はアレルギー性鼻炎だの喘息だのアトピーだの、昔はとにかく体の弱い子供で、鼻はいつも調子が悪かったので、もともと香りには鈍感だったはずだが、十年ほど前からずいぶん安定して、鼻炎の症状で悩まされる回数は極端に減ったし、花粉症の季節でもほとんど意識せずに過ごしている。アトピーも喘息も小児時代を過ぎて以降、久しく無縁である。

ただし視力は、昔とくらべたら相当悪くなったと如実に感じる。視力に不足を感じるなんて、生まれてこの方一度もなく、ただし免許更新の際に視力検査がいつもギリギリでヒヤヒヤするので、そのためだけにメガネは所持していたのだけれども、最近はそのメガネを持ち歩かないとさすがにヤバくなってきた。今やメガネ無しで映画や展覧会に行くのはかなりキツイ。ふだんの生活のなかでも、あー見えてないなあ、と思うことがしばしばある。少し薄暗い場所とか、お店の黒板メニューとか、駅の表示パネルとか、きちんと目が動いてなくて、露出もピントも甘い、というのを実感するようになった。

嗅覚や聴覚や味覚とくらべると、視覚はその感覚を感受する身体機関(眼球)がもっとも大掛かりな感じで外部露出しているので、この機械の調子が悪くなれば感覚も減衰するというのが、ひじょうにわかりやすいように思う。鼓膜はスピーカーのコーン紙みたいなものだろうし、舌はよくわからないけど、あれは感覚と欲望が密接に結びついてる感じがする。美味しさというのは脳がそう感じろと指示しているのだろう、まさか舌という一機関が独自に判断しているわけではあるまい。まあそんなことを言い出したら、視覚も聴覚も、脳がそのように解釈せよとの指示に基づいて各機関が稼働しているだけなのだろうが。

感覚を受ける欲望が元のままなのに、機能が衰えるのだとしたら、それは辛いし面白くないことだろうけど、欲望も機能も非同期で勝手に減衰していくのだとしたら、年齢を経るとともに世界の感じ方が逐一変化していくことになるので、それ自体は面白いことなのかもしれないけど、そういうことを面白いとか思う根拠自体もおとろえていくのだろう。そして今の感覚よりも、かつての感覚の記憶の方が、認識の割合として多くなっていく。

とはいえ、そんな何もかもがキレイに減っていくような感じに変化するだろうか。そんな上手いこと行かない気もする。むしろ昔よりも生々しくギラギラと、実も蓋もなくあさましく愚鈍な状態が続くのかもしれない。というか、べつに何も変わらないのかもしれない。そうそう簡単に変わるものではないということを知って、うんざりするのかもしれない。