希望なし

ベンヤミンの「フランツ・カフカ」に、マックス・ブロートによってもたらされた、彼とカフカとの間に交わされた対話がある。

「(前略) <ぼくらは>、とかれはいった。<神の頭の中に萌したニヒリスティックな思い、自殺の思いなのさ。>この言葉は私に、神を悪しき創造主とし、世界を神の堕落と見なすグノーシス派の世界像を、まず思い起こさせた。<いや、違う>、とかれはいった、<ぼくらの世界はたんに神の不機嫌、おもしろくない一日、といったものにすぎないのだ。>---<それでは、私たちが知っている世界のこの現象形態の外部になら、希望がある、とでもいうのかい?>---カフカは微笑した。<おお、希望は充分にある。無限に多くの希望がある---ただ、ぼくらのためには、ないんだよ。>」

ペシミスティック、とは感じる。しかしカフカはこの言葉を、悲観的な表情で、あるいは自嘲的、自虐的な口調で言ったのだろうか。「希望は、ぼくらのためにはない」という言葉だけを切り取れば、それはたしかに悲観的で、ある意味被害妄想的にも感じられるが、希望がないこと、救いがないことが、悲劇かどうかが、ここではまだ未確定という感じがある。もっと、ふつうに淡々とした言い方だったんじゃないかという気もする。山の向こうは晴れているらしいけど、ここは雨が降ってるね、くらいの言い方ではなかったのだろうか。悲哀やよろこび以前の、奇妙な感触、ただどうも、そういうことらしいんだよね、あなたにとっても私にとっても、それは不思議なことだけど、とりあえずそれが事実として、みとめられるよね…といったニュアンスを、たたえていたのではないか。