闘い

海鳥がトビウオを捕えようとして高速で水面を追いかけてる映像が、テレビで放映されていた。トビウオは海中だと大きな魚に襲われるので、羽根を使って水上を滑空して追っ手から逃げるのだが、水上にいたらいたで、今度は海鳥に襲われる。まさに敵だらけの世界を生きているのだが、猛スピードで迫りくる海鳥をギリギリで避けるために、突然の失速でテンポをずらして海中に戻ったり、相手の裏をかいた鮮やかな回避技を見せる。海鳥もそんなトビウオの動きをさらに予測して、トビウオが海中に戻ると同時に自分も海中に潜り、水面下で獲物を捕らえたりもする。

動物たちにとって喰うとか喰われるは生死の問題であり、喰うことは生の継続で喰われることは死を意味しているのだが、そもそも人間とその他の生き物たちにとっての生や死は同じものではない、というか他の生き物たちにとって生や死は前述した心身の限界近くまでを駆使した神経の動作と運動の果ての最期におとずれる何かであって、それ以外のものではない。これは想像だが、その境地においてはおそらく到来する死と直前の苦痛すら、圧倒的な喜びの心情下に生じる感覚なのではないだろうか。

ある種の軍人、いや軍ではなく近代以前の、近代的組織化が成立する以前の、闘争を職業とする種の人間にとってであれば、互いを喰うや喰われる関係ではないにせよ、どちらかが死に至る関係性を結ぶのであれば、彼らの生死の観念が、海鳥とトビウオに限りなく近づくことも可能だったのだろうか。

海鳥とトビウオが、お互いに自分らの種の伝統というか大いなる規定の元で、やすらかな思いのままに、生死を賭けた死闘をくり広げているのだとすれば、それは大昔の人間同士の闘いにもありえたことなのか?ということ。