ポジティビティ

ポジティブになれるとか、前向きであるとか、やる気があるとか、自身に関するその類の意識は、つまりいったん無根拠の現状を良しとすることだ。

現状を良しとするとはつまりどういうことか。現状を許容するということではないだろう。無根拠のまま、そのままで構わないとは思わない、そう言えるとしたら、それが可能な別の根拠となりうる理由があるからで、そうじゃなければ、そうは思えないだろう。

ならばポジティブとか前向きであるとは、無根拠さを一時的に忘れているということか。たとえば酒に酔うとか、何かで気を紛らわせているとか、そういうことでポジティブさや前向きさを一時的に得ていると。しかしだとしたら、ポジティブさや前向きさや希望は、それ自体としては存在できない、外部の力を借りなければ、ありえないことになってしまう。さすがにそれは、悲観的過ぎやしないか。
とはいえ、前向きさやポジティブさを、朝も夜も日々絶やさずに太陽のように燃やし続けながら生きることはたしかに不可能に近い。しかし逆に、なぜ人は、かりそめにでも根拠の無さ、絶望的なイメージと無縁に、ポジティブになれたり前向きになれたりするのか。それは、なぜ…の因果とは別に、人は根拠の無さや絶望感のレイヤーと、ポジティブで前向きやレイヤーとを平行して、その二層を行き来しながら生きているからではないか。

このとき、ネガティビティのレイヤーと、ポジティビティのレイヤーとは、行く行く先でひとつにはならず、平行したままだとする。二階層間でそれぞれ将来を案じるけど、そのどちらもが、実際のそのときと合一はしない。ただし各レイヤーは相互影響して、無根拠さのなかにほころびを見出し、あるいは前向きさや希望のなかに、孔や染みのような悲観を見出す。

いや、おそらくそのような二層のイメージですらない。ポジティブであるとか、前向きであるとか、やる気があるとか、そういうときに自身に与えられている力とは、そのようには思えない無根拠さ自体を、ある程度射程に捉え得た感じ、距離と実態を肉眼で把握できている感じ、そう思い込めている感じ、それを扱える自信を、身内に感じていられる状態のことを、そう意識しているのではないか。
それはもちろん自身の勘違い、見込み違い、判断の甘さによる勘違いかもしれないのだけど、そうだとしても、その失敗条件の向こうに、おぼろげにでもある希望が見えた気がするなら、それは完全な見間違いだったとは言い切れないし、自身の先にある真の希望ではないとも言い切れない。今後の燃料として、使用に値するものではないか。

(それは、ポジティビティあるいはセルフ・エンジョイネメントの方法として…きっと、植物は、決してそのようなことを考えずに人生を楽しんでいる。醜くも右往左往してるのは、人間の犬だけだ、、という昔の記述(https://ryo-ta.hatenadiary.com/entry/2021/06/13/000000)を思い出したりもしつつ。。)