下手

セザンヌは下手な画家であると、同時代の人々からは散々言われた。今でもそう言う人はいるだろうし、直接口にしないにしても内心でそう感じている人は、少なくないはずだ。

作品において、一見下手に見えるそのような在り方というのは、いつでもひとつの突破口を開くかもしれない、その可能性を秘めた仕掛けであり、常に油断ならない注意点でもある。作品において本来、上手い下手は作品に付随する問題ではなく、観る者固有の経験測に付随した印象の問題である。私にとってこれは下手に見える、それは卑近なたとえかもしれないけど、私にとってこの人は不美人に見える、という感じに近い気がする。これまでの自己内常識から外れていて、かつ自己内常識が世間常識と定期的に同期されているはずという自信みたいなものを揺るがすから、不安で不快になる。美人か不美人かを自分の好みの判断だけにとどめておきたいなら、それで誰にも文句を言われないけど、作品はまた別である。自分はニュートラルだと自分のことを信じているのだけど、意外にそうでもないし無意識に生真面目に世間常識との照らし合わせ確認を怠らなかったりして、そういう頑迷さこそを「あたらしいもの」は正確に突いてくるので、時と場合によってははたと困ったり迷ったりすることもあるわけだ。

わかったとわからないの区分けを考えても意味ないところもある。美味しくないものを美味しいと感じるようになることもあるけど、苦手なものはどうしても苦手だというところもある。わかるけど食えないという例もあるだろうし、わからないけど食べれば美味しいというのもある。心ゆくまで美味しく楽しめるけど、では事後的に言葉で説明しますよと言って、その言葉があきれるほど下手糞なこともある。この下手とセザンヌの下手はまるで別の話なのだが、それもこれも見分けがつかなくなるようだと話はさらにややこしくなる。