釣り力

釣り好きで、酒好きで、お喋りが好きな人の話し相手をしている。相手であるからには、適度な相槌な応答が必要だから、それを適宜挟もうと思うのだが、なにしろお喋りの好き度合いがとてつもない人のようで、こちらに一切のサービス権をあたえずのべつまくなし喋り続けることしか頭にないようで、こういう人はたまに見かけるけどこりゃ相当なレベルだなと半ば呆れつつマシンガンのように繰り出される言葉たちに黙って頷き続けるしかない。

料理とりわけ加熱において、それをどのくらい上手く出来るか?についての、想像力の働かせ方がおそらくあって、火に焙られて温度が急上昇する肉の表面と、じょじょに熱が浸透してく内部と、それらのイメージを脳内であたかも目に見ているかのように再現させながら、絶妙なタイミングで火加減を調節して最適なところで止めると、その結果が、想像していたものとほとんど変わらぬものとして仕上がるいうとき、それは目に見えないはずのものが見えているという状態とほぼ同じことだろうと言える。それはもちろん積み重ねた経験から類推、察知できることで、超能力ではない。しかしそれでも、今熱がこのように加わっている、あと少しで、完璧な仕上がりに至ると想像すること自体は、それが過去の経験を参照していたとしても、やはり超能力に近いものではある。

同じように釣りも、海原の下に垂れた釣り糸の先、餌の動き、魚の動きが、やはり目には見えず想像するしかないのだが、釣り好きで、酒好きで、お喋りが好きな人の言葉によれば、彼はおそらく海中で魚がどのように動き、どのように反発し、どのようにあきらめて浮上してくるのかを、まるでかつて魚に直接問いただしたのかと思うほどの確信をこめて語るのだ。その確信は、竿の最初のひと上げがどの力加減でどのような角度でなければいけないのか、それが水中の魚にとってどんなメッセージになるのかまで、周到万全に頭の中で準備できてしまうほどのものなのだ。たぶん彼も釣り好きの人たちとは皆そのように想像のなかで魚と通信し交歓しているのだろう。そしてそれはまんざら馬鹿にしたものでもない、少なくとも自分のような"素人"の理解は越えたところで、素人から見れば超能力を行使しているとしか思えない、そんな営みに明け暮れてる人たち、とも言えるのかもしれない。