焚き火

志賀直哉の「焚き火」は、主人公夫婦とその知り合いたちが旅館に滞在中のひとときを描いたもので、ああ、こういう旅行はいいなあとつくづく思う。というよりも、これを読んでいるのがそのままとても快適な旅行体験そのものという感じだ。雨の一日、皆でお菓子なんかを食べながらトランプしている。なんとなく飽きてきて、誰かが思いついたように窓を開けると、いつの間にか雨がやんでいて、外からすーっとするような新鮮な空気が室内に入ってくる。それで、皆でちょっと離れたところの小屋まで行ってみようとなる。すばらしい夕暮れをはなれの小屋で過ごし、さらに日が暮れて晩になったら、皆でボートに乗って小さな島まで行こうかという。島に上陸するとまだ火の絶えてない焚火跡を見つける。蕨を取りにきて洞穴の奥で眠っているらしい焚火の主の姿は見えない。肌寒いので彼らも火をおこす。湿っていても、白樺の皮を使って上手に火をおこす。火を囲んでまた皆でひとしきりお喋りする。そろそろ帰ろうかとなって、焚火の火を消し、火種の残る薪を湖へひとつひとつ投げ込む。火の明るさが弧を描いて飛び、じゅっと着水して暗くなる。それがくりかえされて、やがて暗闇が戻ってくる。

ちょっとホラー映画の登場人物たちが、殺戮に巻き込まれる前の、まだ楽しい時間を過ごしている時間だけで出来てる話という感じもする。親密で楽しいひとときのなかに、何か妙な胸騒ぎをおぼえるような、得体の知れない不安感がただよわなくもない。Kさんの昔話も、母親の超能力が遭難寸前の自分を救ったみたいな話だし、焚き火の主も結局最後まで姿をあらわさない。でもたぶんそれは思い過ごしで、実際はただ平穏な時間が続くだけだ。不安も平穏も好きに感じ取ればよい、勝手にすれば良いような、なんでもない時間なだけである。