落ちる

この欄干はいつも低すぎると、自分の身長の半分以下しかないじゃないかと、千住新橋の上から荒川を見下ろすときにいつも思う。今とんでもなく危険な場所にいるのだと思って背筋に悪寒が走る。しかしここに来ると毎回、川は見下ろしたい。見たさと見たくなさの葛藤にいつも苦しむ、おどおどと、恐る恐る欄干に近づき、向こう側を見下ろしてみる。そして荒川の川面の広大さを見て、体の中が空っぽになったような感覚に陥入る。あまりにも広すぎるのだ。あまりにも、何も無さすぎる。この目の前の景色はなんだと思う。そもそも広さというのは見ることができるものなのか、それを怪しく思うほどだ。しかも、この頼りない欄干の、もう少し前に移動したらそのまま見る自分が川へ落ちる。見ること自体が川に落ちるとは何か。最初から見ることができてない、その手前で拒まれている、人でも物でもない何かとしてその一線が与えてくる抵抗感に、驚いているだけなのではないか。身体は落ちてないけど、見ることは成立してないじゃないか。見るというよりも、見ることがすでにこの景色の下に落ちてしまっているのではないか。

川岸から土手まで広く取られた敷地は芝生に覆われていて、野球のマウンドとベースに囲われた領域だけが白っぽい土の色を浮かび上がらせている。鮮やかな色のユニフォームを着た子供達が小さなコマのように散らばって、地面に濃い影を落としながら小さく運動している。野球というスポーツはこうして見下ろすものなのだなあと思う。スポーツ観戦は大抵そうか。フィールドを取り囲んだ観客席から見下ろす。川面の絶望的なまでの取り留めのなさはそこにない。手にとるようにわかる、把握できると思える。野球に興味はないのだが、野球場に行きたいと思うことはある。この高低の感覚を味わいたいと思うことがある。日本武道館でコンサートを観るのが楽しいのは、あれもすごい高低差の元で対象を見下ろすからか。