甘いものが子供の頃からそれほどは好きではなかった、とまで言うと大げさで、人並みに好きではあっただろう。でも甘納豆とか、マロングラッセとか、熟柿とか、ああいったものが苦手だった。あれらはほとんど、耐え難いようなものだった。今ならまだ許容できるが、当時は無理だった。熟すことであらわれてくる甘さ、あるいは粘り気をともなって、しつこくいつまでもまとわりついてくるような底なしの甘さから、できるだけ遠ざかりたいとの思いが強かった。
小麦粉やトウモロコシとバターに砂糖を加えて作られるお菓子を嫌う子供はそれほど多くないだろうと思うが、僕もそういったものは好きだった。でもどちらかといえば、塩の効いたもののほうを好んだ気がする。だから今でも食べ物に関して甘いものへの郷愁がなく、今でも基本的には甘い食べ物を食べたいという気持ちが少ない。それを求める人にとって、甘味がどれほど滋味深いよろこびをもたらしてくれるものか、それは想像できるような気もするのだが、自分のなかにはない。もちろん酒類は好むので、それこそがすなわち糖分・甘さへの欲望である、ということはわかっている。
ところで小学校の頃だと思うが、一時期、板チョコレートばかり周期的に食べていた時期があった。板チョコレートの包装は古典的で伝統の匂いがして、黒字に金文字などマニエリズムっぽくて、ああいう「子供っぽくない」感じに惹かれたところがあった。小学生でもすでにギヴ・ミー・チョコレートという言葉は知っていたはずで、ただの菓子がときには歴史の一端を表現しもする、よくわからないなりにそんな「雰囲気」を見出して、その気分を「楽しんでいた」ところもあったかもしれない。そこに貼りついているらしい「意味」の方を、子供の手でまさぐりたかった。コカ・コーラの缶をまざまざと見つめて、そっと部屋の本棚の上に飾っておきたくなるような気分は、中学生くらいの頃だっただろうか。
オフィスの机上には、ビターチョコレートの箱を二箱常備している。コーヒーを軽く飲むような感覚で、一日に一欠片程度を口に入れる。甘いものを食べるのが、軽い気分転換になるというのは確かだとは思う。カカオ七〇%が黒い箱で、八八%が臙脂色の箱だ。ところがしばらく前から八八%のパッケージだけイメージチェンジされて、臙脂色から紫色へ変更になった。これには興ざめした。チョコレートなのに、臙脂色を捨てるなんて信じられない。これではわざわざ並べて置く意味がない。魅力半減ではないかと思っている。