猫と庄造と二人のをんな

豊田四郎「猫と庄造と二人のをんな」(1956年)の、Youtubeに上がっていたのを観た。こんな感じの女性を、香川京子が演じることがあるのか…。山田五十鈴も成瀬の「流れる」と同年にこれほどタイプの違う女性を演じるのか…。まあ役者なのだから当たり前だろうけど、同じ外見の人がまるで違った人物を演じているのでけっこう驚く。それにしても浪花千栄子の、安定感のすごさよ。浪花千栄子、すばらしいな。金持ちのおっさんに取り入ったときの完璧に作られた笑顔と物腰。ほんの一瞬だけど、いま完璧なものを見たという気持ちにさせられる。森繁久彌はまるで渥美清のようだ。というよりもこういう風貌と物腰としゃべり方の男性こそが、戦後日本における喜劇役者としての模範回答であり典型ということなのか。

森繁・浪花の親子はいろいろ苦労も多くて大変なことは大変だろうけど、でもはたから見てると、たいへん気楽で余計なものをわりきって、そして根本的には幸福で優雅で素敵な生活を送っているように見えてしまう。ことにバカ息子の森繁はまさにそうだ。なんだかんだ言っても、愚かなままの自分をそのままに肯定することこそ、最大の幸福であるなあ…などと思った。とはいえ、こういうのは現実にはありえない。観念だけの世界であるということも、よくわかってはいるつもり。でも観念だけの世界って幸せだなあと思う。ことに海水浴を楽しむ人々のあふれる天国的な海辺の景色。

谷崎潤一郎的な性愛の表現は、とにかく男性の射精という終息へ向かうことの徹底した回避なので、だから序盤の森繁は香川京子にあれほどベタベタと甘えて、脚にまとわりついてデレデレしているのだが、それが性欲の高揚ということではなく、ただただ心地よいものと触れ合っていたい、永久につつまれていたいという、フェティシズムであると同時に胎内回帰的というか、外的なものを拒否してどこまでも安穏を希求するみたいな内向性そのものとしてあらわれる。それは谷崎潤一郎のエロ表現が、つねに執拗さで常軌を逸脱しつつも、あまりエロさが感じられない理由でもあって、どの作品を読んでも、まるで男性的な欲望を感覚として知らない人が異常に粘り強い想像力の脳内イメージだけで書いてるかのようにも思えるのだ。ものすごい細部をもってるけど、いや根本的にそうじゃないんだけど…と言いたくなるようなところがある。