祇園囃子

昨日訪れた目黒の自然教育園とか、板橋の赤塚植物園とか、箱根の湿生花園とか、秋冬の時期の枯れ草と枯野の殺風景さを目にすると、なぜか僕はいつも戦国時代とかに城を焼かれて逃げ延びて最期に辿り着いた場所でこと切れる人の最期に見た景色とはあるいはこんな枯野じゃなかっただろうかと想像する。道なき道の、草叢をかきわけて、追っ手から逃げて、茂みに身を隠して、もはやこれまでと観念して、風がそよぐ音をじっと聴いている。でたらめに草木の生い茂っている場所こそ人間の彷徨っていた数百年前も最近も変わらぬ景色ではないかとも思う。

溝口健二「祇園囃子」録画を観る。ただし酒を飲みながらで、あまりきちんと集中して観ていたわけではなくて、私事ながら、我が家庭における夫婦間での対話においては、主に贅沢を戒め節約を心がけ冷静さを取り戻すための常套句としてこの映画で浪花千栄子が小暮三千代を叱責する際の台詞「そういうことはな、お金持ちの人の言うことえっ!」が、双方向より相手への呼びかけとしてたびたび引用されて使われるのだが、すでに慣れ親しんだその言葉の本来のオリジナル台詞を久しぶりに確認したいとの思いで観た。

印象深いのはやはり浪花千栄子だった。すばらしい。情け容赦ない、おっかない女将の貫禄が、只々ものすごい。祇園が舞台だが浪花千栄子の言葉は京都と大阪が混ざり合っているような感じがする。強引に迫る男の舌を噛む若尾文子もすごい。口元を血に染めて痛がる男の姿。若い女から老獪になった女までのバリエーションが見事な配列であらわれる。客人の男たちも底光りするようないやらしさも徹底している。木暮実千代の養母のように心やさしい中間管理職的な悲哀はむしろぜんたいの味わいを曇らせ切っ先を鈍らせてしまいかねない。最後に覚悟をきめて男の寝間へと向かうしぐさに、この世の救いの無さの冷え冷えとした、さかさまになった救いの色を見るかのようだ。