洋梨のシャルロット


テレビを見ていたら、お菓子を作っていた。


ボウルに何かと何かを入れて、粘りが出て、ヘラにへばりついたまま形が変わらないくらいの固さになるまでずっと掻き混ぜて、というか、あわ立てていた。それとは別に、鍋に火をかけて、また別の何かをあたためながら掻き混ぜて溶かしていた。それを大体八十三度くらいまでの目安であたため、そのあとで最初にあわ立てたものに四分の一くらい加え、きれいに混ざったようなら、残り全部をくわえて、ひきつづき掻き混ぜる。そのとき、ボウルの下には氷水を入れて、温度を冷やしながら混ぜ続ける。


そんな工程が延々続き、なんて面倒くさいのだろうか、こんな面倒くさいことをするなんて、ほとんど理解しがたいと思った。お菓子作りが好きな人は、もう年がら年中、こんなことばっかりやっているのだろうけど、よくよく考えると、これはもの凄いことだ。あれだけ手間をかけて、あれだけ面倒臭い工程を重ねて、たかだかあれだけの、僕なんかは正直、ぜんぜん食べたいと思わないような、あんな、ちまちまとしたものを作るのである。それはもちろん、僕が甘いものにそれほど興味が無いから、そういうことを言うのだが、でもそれにしても、労力に比して報われる要素があまりにも少ない。信じられない。ほとんど無償の奉仕活動に近いのではないかと思った。


それこそフランス料理とかもそうで、ちゃんとした料理は、もう気が遠くなるような工程でできあがるものだ。コンソメスープなんかを一から作ってるような店など、ほぼ狂気の沙汰と言っても良いかもしれない。


まあ、あれだけの手間をかけて作って、出来上がって、それを供したら数秒でぺロッと食べられてしまったり、あるいはいつまでたっても手を付けてくれなくてテーブル上に置かれたまま次第に室温に馴染んで駄目になってしまったり、手塩にかけて作られた可愛い作品たちの辿る運命を思うと、かなしいものがある。作り手と受け手の間に広がるこの絶対格差。僕なんかに食べられてしまうお菓子ほど不幸な存在もないだろう。いったいなぜこの子はこの世に生まれてきたのかと問いたいくらいだ。


高校生の頃、美術の予備校に通っていて、授業中は皆で何時間も黙って絵を描いているのだが、あるとき、ちょっと集中力が途切れて、ふと周りを見回して、当然周囲もモチーフを囲んで同じように絵を描いていて、そのとき向かいにいた女の子が、俯いていくつかの絵の具の瓶を逆さにしてパレット上に絵の具を出してそれをナイフで混ぜて調合しているのが見えた。残り少なくなった絵の具を、瓶の底を叩いて最後まで出そうとしている。パレット上に絵の具がぽたぽたと落ちる。それをナイフで集めて、混ぜる。


それを見ていて、突然ものすごい空虚感におそわれたのを思い出す。あれ、ここで我々はいったい、何をやっているのかと。自分も、向かいのあの女もだ。これはいったい何なのか。ああして、瓶の底を叩いて、絵の具を混ぜて、また画面に置いて、また俯いて、絵の具を出して…。まったく、お菓子作りが無償の奉仕だとしたら、絵を描くのは狂人のボール遊びみたいなものかもしれない、というか。


空虚というより、その女のことが、どこまでもかなしい存在に感じられたというか、ほとんど絶対の孤独の中にいる一人の人間を見たというのか、何か得体の知れない、今、僕は、ものすごくかわいそうな人を、目の前に見ていると思った。この、救いようのない、かわいそうな感じは、いったい何なのかと思って、しばらく呆然とした。


しかし、手間の割には報われないから、と思っていたわけではなかった。それを面倒くさいとか、手間が掛かってる、というような意識は別になかった。