聞いて下さい

宇野浩二「蔵の中」の主人公は、これまで自分が所有してきたあらゆる衣類・家具・寝具・その他を質屋に預けており、しかもそれらが質流れしないように、なぜか定期的にきちんと利息金を払っている。ふつうに考えたら、貸金を返して質草を取り戻すか、流してしまった方がよっぽどお金の使い方としては効率的なのに、わざわざ質屋にモノを保管し続けるためだけに分の悪い金を支払い続けていて、その意図は不明である。ふだん着ている着物も、わざわざ質草になっている衣類のなかから、質屋に「借りて」着ている。また、質屋の蔵に保管されている自分の着物を「虫干し」したいがために、質屋に頼み蔵の中に入って、自分の着物をうっとりといつまでも眺めて悦に入っている。

主人公は一日を三区分して過ごしている。朝、起きると朝飯を食い、食後に眠り、起きると昼なので、昼飯を食い、食後に眠り、起きると宵なので、外を散歩して、そのあと気が向けば原稿を書いたり、読書したりして、明け方になると眠る。一日を三日分にして過ごしているようなもので、すでに四十歳を過ぎて自分の性的能力の衰えが気になっていて、だとすればそれは自分が人の三倍速く年齢を重ねているからではないかとおそれている。

主人公が宵のうちに散歩に出るのは、通りを歩く芸者の女たちを眺めるためである。主人公の持論として、女は「あれ」のあるうちは、その外見のどこかに、かならず見るべき価値がある、顔がまずくても髪が、髪がまずくても着物が、着物がまずくても下駄やそのほか、何かしらどこかには、見るべきものがあると思っている。不審ではあるが、芸者の歩く姿を求めて同じ通りを何度も何度も彷徨うこともある。

主人公は自分の外見をさほど良いとは思っていないが、しかし着物を着た際の、全身のすらっとした感じは悪くないと思っているし、世間の人はなぜ外見について顔ばかり重視して全体を見ないのか不思議に思っている。主人公は洋服が好きで、何の用事もなく外出の予定もなく、ふと思い立って着物を着換えたり、帯だけ変えたり、まるで無意味な着替えをすることがある。ときには畳の上に新聞を敷いて、下駄ばきの外出用の着物に着替えて、新聞紙の上を何往復も歩き回ったりもする。我ながら、自分のことを狂人ではないかと思うこともある。

そんな主人公のこれまで付き合ってきた女のことは、そのときに着ていた自分の着物を見るたびに思い出すし、今でも女と知り合うのは楽しい。

「---話が前後して、たびたび枝路に入るのを許していただきたい。」
「---話がまた前後します、枝路に入ります、というよりは、突拍子もないところへ飛びます、どうぞ、自由に、取捨して、按排して、お聞き下さい」
「---もう少し待ってください、もう一つ別の話をさして下さい」
「ああ、とうとうはなし始めました。枝路(どれが本筋だか自分でも見当がつきませんが)の話はこれ一つで止めますから、どうぞもう少し辛抱して聞いて下さい」

…などと事あるごとに挿しはさみながら、えんえんと自分語りが続く。聞いてほしい、聞いてくれ、聞いてくれなくてもいい、聞かないでくれ、という訴えのどれでもない、本作の「告白」を読んでいると、ただひたすら本能にしたがって動き回る昆虫を見ているような感じがする。人間と人間がわかり合う、あるいは分かり合えないという問題とはまた別の、まるで別の位相で、人間と昆虫は当然わかりあえないということに、今更おどろいているような感じがある。