良い音

4/18に配信された保坂和志「小説的思考塾Vol.3」を聴講(先週急用で観れなかったのでアーカイブで)。

蓄音機の音の良さ、というものがある。SP版に刻まれた音源を蓄音機で再生したときの、まるでそこに演奏者がいるかのような臨場感を一度でも体験すれば、それを過去の遺物のノスタルジーをまとった音だとはけっして思わない。むしろ現在のテクノロジーが過去から未来へ向かってスムーズに発展してきたというのが思い込みに過ぎなかったのではないかと感じられてしまうほど、それは音が良い。僕は蓄音機の再生音をじかに聴いた経験はないのだが、それがただならぬ音を出すというのは、たとえばツィゴイネルワイゼンのヴァイオリンの音とかが、突き刺さるかのように、包み込むかのように場に満ちる感じというのは、なんとなく勝手な想像でイメージしてしまうところがある。

音の良さというものが時代を経てズルズルと矮小化されてしまった結果が、今良いとされる再生装置でありそこで表現可能な音質であって、それは大昔の高級再生装置が実現していたものとは違う。どちらの方が音が良いとか悪いとかの比較が成立しないような違いが、そこにはあるのではないか。

技術や科学が単純に進化するわけではない、それは時間が単純に後ろから前へ流れるのではないということでもある。

おそらくその音の良さとは、「まるでそこに演奏者がいるかのような臨場感」ですらないのではないか。それは蓄音機の音としか言いあらわすことの出来ない音ではないか。あえて言えば、それはそこに演奏者がいて演奏したときの音質よりもすぐれている。それこそは複製技術によって録音された媒体ならではの良さで、今ここで起こることを凌駕するほどの、圧倒的な質をもった過去、郷愁ではなく、もっと切迫的な過去のことだろう。