音楽

【配信版】音楽談義vol.1(保坂和志湯浅学松村正人)を聴いていた。以下はそれを聴いたあとで考えたこと。

昨日書いたドアーズの「L.Aウーマン」もそうだけど、AppleMusicでは最近だと、ビル・エヴァンスシェリーズ・マン・ホールのライブとか、山下洋輔トリオの「クレイ」なども、ハイレゾロスレス化された。

今のハイレゾロスレスは、あれで達成されている音とは、おそらく当時の音楽家たちやスタッフたちですら聴いてなかったような音だとも言えるだろう。リマスターというのは基本的に現在の再生装置にあわせて行うものなので当然なのだが、それでもそのことにあまりに無頓着なままだと、起源とか当時の背景みたいなものからどんどん遠ざかることになるというのも確かだ。

音そのものの解像度だけをあげる考え方は何か違う、そのような意見もよくわかる。しかしその一方で、(複製)音楽という表現形式が不可避的に、そのとき手に入れられるメディアと再生装置に依存してしまうのはどうしようもない。しかしだからこそ、音質が音楽の質を左右するわけではまったくない。誰もがさまざまな条件で、その音楽に出会うわけだし、常に良いとされる音の質が決まっているわけでもない。音楽はたぶんそういうことの手前から、聴き手の耳に聴こえてくるものだろう。

僕がはじめて買ったCDは、ジョン・レノンの「イマジン」である。おそらく1986年のことだ。両親がCDプレイヤー搭載のオーディオシステムを買ったので、それでまずは、CDで音楽を聴いてみたいと思って、あわてて駅前のレコード屋で買ってきたのだった。なぜイマジンを選んだのかはわからないけど、それで良かったと今でも思う。"クリップルド・インサイド"や"オー・ヨーコ "の乾いた、硬質な、CDならではとしか言いようのない音の跳ねる感触をしっかりと味わえたし、"ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?"や"ハウ?"の大仰ともいえるようなストリングスが、デジタルサウンドならではの広がりをもって鳴るのを聴くこともできたからだ。

ロックでとくに60年代や70年代に出た、後に名盤と呼ばれるようなレコードの場合、どうしてもリリースのタイミングが、単なる発売日にとどまらず、社会的事件みたいな、それ以前とそれ以降はもう別の時代みたいな、そういう感覚をもってないとダメみたいな、そういうところがあって、つまりロックというのはそれだけ社会的、政治的な音楽であることを避けられないのだが、それはそれとして、それと同時に、十年前、三十年前のレコードを、今でもまだちゃんと聴けること、時代による風化、劣化に耐えうることもまた、求められているとは思う。というか、そもそもそこは求められていなかったのかもしれないけど、ここに来て結局、良いものはちゃんといつまで経っても良いというのが、ロックにおいてもそうであるとみなせるわけだ。

ドアーズのメンバーはたしか、大学時代に出会ってバンドを組んだのだったように思う。それで、あのファーストを作ったのではなかったか。あのファーストアルバムは、まだロック・ミュージックと呼ぶのさえ難しいような音楽を、ミュージシャンになろうとする若者たちが作ったものと言えるのかもしれない。それがあれほどのクオリティだったわけだけど、逆説的だがあれはむしろクオリティ高すぎであるがゆえにロック・ミュージックではないのかもしれない。

その意味で、ドアーズはセカンドからはじまったとも言えるだろう。でもそれは、すごくつまらないことでもある。ある規定を受け入れた時点で、すべてのロック・ミュージックはつまらない、しかし、あらためてロック・ミュージックとして続けたい、続けざるを得ない、「音楽が終わったら」…というわけにはいかない、その気持ちがなければ、音楽は続かないし聴けない。