京都とかの寺の、テレビに出てきて、喋ってるような住職は、例外なく悪人に見えるね、と言ったら、相手は、そんなことないと言う。僕は、喋りが上手すぎるし、表情もよくできているから、かえって絶対に、いい人じゃないような気がするんだよね、と、乱暴なことを言う。そして相手の、そもそも「いい人」っていうのは、どういう人が「いい人」なのかね?との言葉に答えようとして、それは要するに、いつでも常に、弱い者の味方で、それで…いや、「いい人」なら、とりあえずそれだけで充分オッケーでしょ。と思ったことをそのまま口に出す。しかし、弱い者の味方?常に弱い方の味方…。しかしこれは、常に弱い者の味方です、と言ってしまっただけで、ダメになるものがあった。それとはつまり、こういうことだ、という、その形式がダメだ。いいと悪いとの間に、線を引こうとする時点でダメだ。また、ダメじゃないかダメかを、考えている時点でダメで、ダメという言葉を使ってしか考えてない時点で、ダメだ。ダメとはつまり、寂しさのことだ。本を読んでいるときに、よく思うことだが、つまり、書いてあることを受け入れているなかで、それを、こうだったら自分にとって良い、と思いながら、読んでしまう時点で、たとえばドゥルーズの本を読んでいるとしよう。そこに書かれていることを、つまりこうなら良い、それとも良くない、と考えてしまう時点で、いつも、失敗の寂しさを感じる。しかし、だからそのように、良いも良くないも考えない、というのも、また間違っているように思う。というか、それをまったく平然として、良いも良くないもない、と言われると、ある種のイラつきを感じる。その怒りを消したいとは、あまり思わない。やはり、そういう怒りに身体を少しずつ蝕まれて、死に近づくのだろうとも思うが、結局は大体が、そういうものではないかとも思う。きれいごとを言ってるだけよりは、そのほうがいいじゃんと思うこともある。それは、電車の中で人に親切にしている部分と、電車の中で近くの人にイラついてる部分とで、結果的には私はイラつきました、という終わり方で、電車を降りたということだろうが、イラつきながら、ああ、こうしていま、イラついてる自分がいるなあと、昔の自分が、今の自分を見ているのを感じるとしたら、と思うときがある。それは、そう思うのでなくんて、おそらくそういうときには、どうやら実際に、現実として、昔の自分が、今の自分を見ている。はっきりと制御が、昔の自分に帰っている瞬間がある。つまりそれは昔の自分なのだ。与えられた自分の枠内において、感情的に振り回されてもいるが、同時に昔と今を、もっと自由に行き来することで、この自分はこれからも、悲惨ながらもスリルに満ちた一生をおくる。


昨日、図書館で借りてきたM.F.K.フィッシャーの「オイスターブック」より

 牡蠣は悲惨ながらもスリルに満ちた一生をおくる。

 そもそも、生きられる確率が低い。過酷な運命が射かけてくる数々の矢を首尾よく避けて生きのびたとしても、華やかな青春時代はわずか二週間で終わる。この二週間のうちに、平らで清潔な場所を見つけてはりつかなければならない。うまくはりついたところで、彼を待つのは緊張と危険に満ちた年月である。

 彼---といったのは、言葉のあやにすぎない。正常な牡蠣の大半は、翌年自分が彼になるのか彼女になるのか予測もできないのだ。生を享けて最初の一年が過ぎたあとは、きわめて男性的、精力的に過ごしていたはずの自分が、ある日突然卵を産みはじめても驚くにはあたらない。彼女になった彼は女性的、かつ精力的に生きる。すべてがうまくいき、海水温が二〇度以上あれば、一度に数千万個、ひと夏のあいだに総計数億個を産卵することになる。立派な成果といえよう。

 アメリカ産の牡蠣はアメリカの国民と同様に、多様な違いを見せる。大西洋岸では、海中に放出された卵子が同じく放出された精子と出会って、両親からはるか離れたところで受精する。孵化した牡蠣は無防備なまま潮に乗り、青春期を浮遊して過ごす。一方、西海岸の牡蠣は、母親の殻のなかにある特殊な血室のなかで受精し、その後二週間ほどを安全に過ごす。東部育ちのほうが勇敢なようだ。

 いずれにしても、牡蠣は海中で誕生する。母親の、少なくとも数十万個の卵子が、どこのだれとも知らぬ父親の精子を受精してから五ないし一〇時間後、牡蠣の子どもが孵化する。まだ幼態で小さいが、泳ぐことはできる---したがって、東海岸の牡蠣の場合はその形のまま、潮の流れのおもむくままに二週間ほど浮遊する。この段階の牡蠣を稚貝という。

 擬人化が許されるならば、稚貝が二週間を楽しむことを祈りたい。一生のうちで、自由な放浪生活を味わえる唯一の時期なのだ。といっても、完全に自由ではなく、仕事も待っている。青春時代を通じて、丈夫な「足」をひとつ育てる一方、粘着性のセメントのような物質を大量に蓄える必要があるからだ。牡蠣に心があったら、なぜこんなことを、といぶかったかもしれない。

 楽しかったはずの二週間が過ぎると、彼はとりあえず目についた清潔で固い平面にへばりつく。無数の兄弟たちのうち、魚に呑まれずに二週間を過ごした果報者たちも、ここで固く清潔な平面にいきあたらなければ死ぬほかない。しかし、私たちが見守ってきた稚貝は運よく平面を見つけて、意気揚々とへばりつく。これがついのすみかになるかもしれない。大きさはわずか一ミリの三分の一ぐらいだが、もう立派な牡蠣である。

 シンコディーク湾かリンヘイヴンか、とにかく東部生まれの牡蠣は、適度に塩分を含む快適な海底にこうして居を定める。潮の満干のたびに洗われるおかげで汚染に身を汚すこともなく、砂に息がつまることもない。

 牡蠣と海底は一本の「足」でつながれている。その足はいまや、殻に変身している。そうなることが、牡蠣の昔からの決まりなのだ。牡蠣は海水を呑みこむことに専念し、あるうらやむべき能力を急速に発達させる。晴天で、水温が二十五度前後で安定しているときの牡蠣は、一時間に二十四、五リットルもの海水を呑み、海水が体内を通過するあいだに、珪藻類や菌類のかけらを残さずさらいとる。これが牡蠣の食事なのだから、仕事と楽しみを一致させられる稀な生物である。

 養殖牡蠣の場合は、牡蠣殻を敷きつめた金網籠や、セメントの柱が家になる。あるいは、卵出荷箱の間仕切りの表面を、セメントと石灰を混ぜて塗装したものかもしれない。行政はこれを「とりわけ効率の高い収穫法」として推賞する。

 またもや擬人化することが許されるならば、私たちの牡蠣がせめて牡蠣殻を家とすることを祈りたい。東海岸に生まれてしまった以上、日本の牡蠣のように竹を家にするという美的な喜びも味わえないし、フランスやポルトガルの牡蠣のように、凹型のタイルを敷いていただくという贅沢も望めないのだから。それはさておき、家の正体がなんであれ、家を見つけた瞬間に稚貝の時代は終わる。自由に放浪した二週間の青春は永遠に去り、苦労の多い大人の日々がやってくる。しかも、リチャード・シェリダンが『批評家』でいったように、牡蠣には失恋が待っているかもしれない。

 牡蠣は生後一年間、男として生き、数十万個の卵子を受精させるだけの精子を放出する。ただし、卵子がそばを漂っているか否かは知るすべもない。一年が過ぎたある日、ふいに二枚の殻のなかで母性本能が目覚め、ひんやりした体内から周辺の外套膜にまで満ちわたる。必要は発明の母というが、牡蠣は必要にかられて<母>になる。彼が彼女に変わるのだ。

 彼女になった牡蠣は、腕が鈍らないようにときどき男になる以外は母として、毎年おびただしい数の産卵をくりかえし、生後七年前後で女盛りに達する。

 女盛りの牡蠣は見事にふっくらしている。本能がすべてに優先する夏はとくに、豊満になる。最初の家を離れて旅もしているだろう。養殖者が愛のキューピッド役を務め、自分勝手な目的があったからとはいえ、受精しやすい潮目や場所に移してくれたおかげである。外見は灰白色の楕円形。えらには緑色、黄土色、黒が混じる。からだの前方に、ごく原始的な脳がある。目も耳もないが、影や精子の存在を感じることはできる。また、危険を察知すると内転筋をひきしめ、二枚の殻をぴたりと閉じて身を守る。