しのぎ

図書館で色川武大「戦争育ちの放埓病」をたまたま手に取って読みはじめて、そのまま借りてきて今日はこればかり読んでる。

何かとてもなつかしく、かつて居た場所を思い出させてくれたような気持になっていた。断っておくがもちろん僕に色川的な賭場経験など微塵も無くて、ほぼ想像の世界に過ぎないのだけど、しかし実にいい話だと思う。賭博という仕組みの、何か根源的なやさしさ、人間をひとまず現実から救ってくれる(たとえあらゆる意味で蝕まれボロボロにされたとしても「病むことはなく」死んでいけるような)制度のように、感じたりもする。

チラリとでも顔さえ通っていれば、賭場は廻銭を廻してくれる。当時、返済期間は一週間でこの間なら利子もつかない。だから常盆は火曜とか水曜とか曜日を定めて週一で開かれる。火曜の常盆にまず行って廻銭を廻して貰い、三十万廻して貰ったら、それで適当に揉んでそのまま帰ってくる。翌晩、水曜の常盆に行って手銭でいくらか張り、そのうち廻銭を貰って適当に揉む。木曜の常盆、金曜の常盆と方々渡り歩いて、それで最初の火曜の常盆で借りた三十万を、翌週きちんと返せるかどうかだ。それが次々にできれば、資本無しでなんとかしのいでいくことができる。

 もちろん負ける夜がある。やくざの盆はテラ銭がきついから、十五人居れば十人は惨敗になる。戦死者が続出する。

 けれども、こうもいえるのだ。負ける人は、なんとか負け金を支払える余裕があるから負けるのである。余裕がなければ、しっかりと一線を引き、その一線を超えないうちにやめて帰ってしまう。誰だって勝ったり負けたりする。だが、銭の無い者は大敗に至らない。また勝ち方もちがう。最初の廻銭、つまり廻転資金を運用することに主眼がおかれるから、ロマンチックな大勝ちの道を選ばない。

 賭場はこういうしのぎをする者が多い。盆の方もわかっていて利用している。廻銭をきっちり返済している以上、彼等はテラ銭をあげる人数としての存在理由がある。そうして多少のプロセスはあっても、支払う余裕のある旦那衆が、結局は負けて場をうるおしていくわけである。

(「無銭」)

 賭博とは、とりあえず自分の人生をコンパクトなゲームに見立てて、今すぐに生活を始めることの出来る仕組みのことだ。賭博にうちこむ理由は金ではなくて、生活のためだ。生活というのはつまり、しのぎという意味だ。しのぎを続けて、勝てば安堵するし気が大きくもなるし、負ければ焦るし不安になり絶望したりもするが、それだけのことなので、とどのつまり勝敗はどちらでもよく、賭博を続けるかぎり、金は増えたり減ったりするのだが、ゼロになってしまわない限り、しのぎは続く。金はゼロでなければよい。いちばん重要なのは、しのぎである。つまり継続性であり、生活である。

あらゆる賭博には胴元がいる。胴元は手数料を取って、残りの金は客同士がシェアする。負ける客とは、負けることの出来る客で、負けることの可能な客が、その賭博場を支えている。負けることが出来ない客は、負けないようにしのぐしかない。しのぎ切れないと感じたら、すっと身を引いたり、イケると感じたら、一気にイッたりする。誰もが同じ条件のはずで、誰もが自分のことを、俺は負けることができない客だと思い込んでいる。しかし蓋を開けてみれば、ほんとうに心の底から負けることの出来ないと思っている客はほんの一握りで、ほとんどの客は、途中で自分が負けることの出来る者だということに気付く。そして、ほとんどの客は負ける。

それにしても賭博は、しのぎがつづく限り、永久に終わらないという性質をもつ。所持金が尽きてないなら明日もまた賭場にそれを張るしかない。大勝ちしてキレイに引退して、あとは悠々自適に暮らすだなんていうのは幻想で、現実としてそんなのはありえない。この場所を去りたければ、しのぎをやめるしかない。しのぎをやめるというのは、勝つとか負けるとかとは違った何かだ。その営みに対して自ら終止符を打つとは、ある意味負けるよりも厳しいことで、それは自ら非を認めることにも近い。痛みをともなう何かのはずだ。

それは、しのぎをやめても生活をやめるわけにはいかないという単純な事実と、いきなり向き合わなければならないと気付いたときに感じる痛みなのかもしれない。いままで自分のやってきたことと、これから自分のやるべきことが、あまりにも似ていて、その芸の無さに辟易として、退屈さにうんざりしながら、それでも再び元手ゼロから始めなければならないことの、叫びたくなるような味気無さと虚しさに耐えるところからしか、始められないことから来る痛みなのかもしれない。