佐々木、イン、マイマイン

山拓也「佐々木、イン、マイマイン」(2020年)をDVDで観た。

佐々木、かつてこういう人は、たしかにいた。そう思わせる存在感だった。全裸になって騒ぐとかそういうことよりも、数人で無為な時間をただ寝そべってやり過ごしているだけのひとときの、誰が誰に話しかけるわけでもなく、相手の目を見ず、反応も期待なく、動物が群れをなすように、ただその場に沈み込んでいる、何の脈絡もなく何か話しかけてくる感じ。

楽しければ全力疾走しながら大声を上げて両腕を振り回すが、それは楽しさの自家発電で、たしかに楽しいけど、そんな自分や周りが楽しいという枠をたしかめ合っているかのように楽しい。

主人公は佐々木を見て面白いやつだと思い、相手にかすかな好意を感じ続けている。それを感じさせてくれるやつは貴重だ。高校生のときに、ほとんど謎な、ものすごく面白い人、あるいは遠くから見た印象として、そんな気配を感じさせる人は、たしかにいた。

面白いやつは、自分のことを一方的に面白がらせてくれる。自分はその相手に、まるで片思いのように惹かれている。しかしその関係が片思いと違うのは、もうこれ以上、なにかを相手に何か求める気は自分にないからで、むしろ自分がより一層相手を理解すべきであるとの思いが勝つからだ。それは両想いとも少し違うのだが、しかしある種の成就ではある。あとは成就したものを、自分がどれだけきちんと理解できるかを考えたい、理解を深めれば、それがより相手のためにもなる気がするからだ。

面白いやつが、その面白さを肯定し、傍らの自分をも肯定してくれるように感じる、それは自分にとって幸福だ。それと同時に、ある気掛かりを感じさせもする。幸福を与えられた、恵まれた自分に比して、目の前の相手は充分な見返りを得てないのではないか、そんな気がする。ただひたすら自分だけを幸福にしてくれる一方的な流れ。しかしそんなことはありえないはずだ。自分にとって面白いやつが、その内側の芯まで面白いだけの存在であるわけがない。だからそれを知りたい、つまりこの関係が、どんな仕組みで成り立っているのかを知りたく思う。

そのように目を向けることで、関係は微妙に変化するか、あるいは生活が変わって、それまでの関係がウソのように疎遠になる。かと思うと、忘れたときに再び出会ったりもする。

高校を卒業したあとで、同級生とかと久々に会ったとき、それまでの印象とは何かが微妙に違っていると感じたりもする。

それはやはり、自分が彼を、学校という環境の枠内で見ていたから、その枠が外れてしまった場所で同じ相手に会うから、その違和感だろうと思う。そういう違和感を感じない人もいる。つまり学校という枠とあまり関係ない存在感だった人間もいる。でも大抵はそうではないだろう。

学校という枠を外れてしまった相手と再会したとき、その相手が感じさせる雰囲気のことを、これからの自分や彼に待ち受けてる膨大で無為な時間、と言って良いのかもしれない。