弱いアナーキズム

西川アサキ「分散化ソクラテス」と、VECTIONによる「苦痛トークン」についてのエッセイを、あらためて再読する。

西川アサキ「分散化ソクラテス」の記事
https://spotlight.soy/bLb7kPck9DE9BZFy

VECTION「苦痛のトレーサビリティで組織を改善する」の記事
https://spotlight.soy/vection

組織メンバーである自分は苦痛トークンを投下できるが、そのためには自分が自分の苦痛を正しく知ってなければならない。しかしはたして自分が、自分の苦痛を知ることが出来るだろうか?

・幸福についての合意よりも、苦痛についての合意の方が得やすい
大義(理念)や誰かの幸福のためには当然苦痛が伴う、と信じるのを避ける
潜在的で見えない苦痛を顕在化する
・組織の失敗が苦痛というシグナルとして現れ、それを通じて組織構造が変わりうる

とくに、この2番目についてどのように考えれば良いのかが、とても難しい。たとえば物事を習得するにあたって、誰もがおぼえのあることだろうけど、新たな知見を得るというとき、最初の段階で、人はかならず苦痛を通過する(と事前に想定する)とは言えないだろうか。今は苦しいけど、そのうちきっと楽になるはずだと信じる人と、今この苦しみこそが苦痛であるととらえる人。その苦痛の内実が同じだとしても、とらえ方は異なるはずだ。

しかしここではひとまず、誰もが大義(理念)や誰かの幸福という概念を顧みておらず、もっと言えば自分の大義や自分の幸福についても、概念レベルでは顧みてない状態が想定されている。そう考えるしかない。後から遅れて幸福が支払われるという仕組みは存在してないと考えるしかない。

それによって「私はこの苦痛を苦痛と考えるべきか否か」を考える状況から、すでに私は抜け出せている。「私の苦痛は、私の苦痛である」と迷いなく断定できる私が想定できること、それが苦痛トークン運用の基本になるということか。

「私はこの苦痛を苦痛と考えるべきか否か」とは「私にとっての幸福とは何か?」に置き替えることが出来る。この視点、すなわち「優先されるべき幸福は何か?というような問い」にひたすら拘泥することのない視点を、自分のなかに「実装」しないことには、「苦痛トークン」も正しく使用できないことになるだろうか。

いや、個人がどう考えようが、すなわち「優先されるべき幸福は何か?というような問い」にひたすら拘泥することなく、直観的に苦痛を判断し続けた結果、組織は健全になると、それを信じさせてくれる根拠が、世界史と哲学を俯瞰する視点(唯物的史観?)であるということだろうか。

ソクラテスが「上から目線」ではないこと。お前は間違ってる(ゆえに私が正しさに近い)という関係のイメージを、ソクラテスは相手に与えない。それを与えてしまうと目的がそこに固着してしまう。しかし目指すべきは、「宙ぶらりんの状態に放置される」ことだ。対価の発生するような関係が生じない、そのような関係が成立しない(転移しない)状態。

ソクラテスの意図は、対話相手を「正しい意見=自分のバイアス」に説得することではない。それはディベート術の目的だ。彼の意図は、対話相手がバイアスから自由な態度(=「普遍的立場」と呼んでおこう)を維持することにある。まさに「自分が無知であることを知る」ということ自体が目的である。

このような意図に対し政治哲学でよくある批判は、そもそも「バイアスから完全に自由な普遍的立場」は、人間の実存の条件としてありえないというものだ。言葉の内部に埋め込まれたバイアス、生理学的バイアス、あるいは「普遍的立場が良い」というバイアスなどなど、ひとは無限のバイアスを持って生きざるを得ない。無知のベールをかぶることができるのは思考実験上だけなのだ。

しかし、ソクラテスの問答法の意図は、「バイアスから自由な態度がある」という主張ではなく「バイアスから自由になり続ける」活動そのものの継続だ。ゆえに、「無意識のバイアスが無数にあり完全に解除できない」ことで、それを批判することはできない。

筆者が、問答法の持続可能性に疑問を感じる理由は、このタイプの批判とは別だ。問答法が持続不能にみえる理由は、それがあまりにも「強い個人」を要求しすぎることにある。

だから、そのような『「強すぎる個人=ソクラテスのような人」は、持続可能な「ひとり政治制度」ではない。』そうではない新たな施策としての「弱いアナーキズム」。

我々は、生のままのカント的道徳を実行する困難が増した時代に生きている。このことは、そのままリベラリズムの困難、むき出しの生存競争主義の台頭につながる。

なので、もう少し弱く、そして可能な限り技術サポートのある倫理を求めたい。そこから、分散組織の政治哲学に関する糸口がみえるかもしれない。それを前回は「弱いアナーキズム」と呼んだ。