見る子供

子供でも、見る力はある。というよりも、子供の時点で、見る力はすでに出来上がっているのかもしれない。子供が、大人のつくった作品を見て、ああこれは良くない、これは無残なものだ、この作者は自分の人生を、おそらくどこかで勘違いしている、いつかどこかで自分の天分を見誤ってしまったのだ、と一瞬のうちに感じ取ることは、往々にしてある。そのとき子供は、作品の不出来と、その作者の過去と、まだ見ぬ自分の未来とを、重ねて一挙に感じ取っている。

そもそも大人が何かを見るとき、それは自分の子供のときに培ったやりかたを使いまわしているだけだ。子供のときの、見たことで得た経験を、その度ごとになんども呼び起こそうとするのが、その人の見るという行為で、その人にとって見るというのは、その枠から出られるものではないだろう。