茹豆

茹でた枝豆の、房と豆の間にはしっかりと塩気を含んだ水分が含有されている。房を直接口に付けて、中の豆を吸い出すとき、房の外側に付着した塩とともに、房内の塩気も豆と一緒に口内に取り込まれて、茹でられた歯ごたえと、豆の香りと、塩気と、水分、これらが同時に咀嚼されることで、茹で枝豆の味わいが完成する。蕎麦とかの麺類が汁と共に口内に取り込まれるときの原理と、理窟は一緒と考えられる。

だから茹でた枝豆を、あらかじめ房から全部外してしまって、豆だけを匙で掬って食べても、そんなのは全然美味しくないだろう。だろう、と書いたが、じっさいにやって、あ、これでは美味くない…と思った。だから、知っているのだ。すりつぶしてスープにするとかソースにするなら別の話だが、茹でた枝豆を食べようとして、枝豆の鞘からわざわざ豆を外したらダメだろ!と、はげしく叱責されて、それでも文句は言えない。そもそも、あれの何が美味しいのか、きちんと考えたことが一度でもあるなら、そんな愚挙に出ようとは、夢にも思わないはず。アライグマが綿あめをもらって、嬉々として水に浸したら、綿あめは溶けて消えてしまいました…という動画があったけれども、茹でた枝豆をあらかじめ房から外す人は、そのアライグマと同じ檻の中にいるのじゃないだろうか。

まあ、ふだんは、分かった風な、もっともらしい態度で過ごしていますけれども、所詮はアライグマ並みなのだ。大げさじゃなく、じつは本当に、そんなものなのである。自分でよくわかっているのだ。本気でアライグマに近いと思う。

まあ、済んだことは忘れようと思って、音楽を再生する。このWho knowsという曲は、アナログでもCDでも所有してるけど、いまのところ、AppleMusicで聴くのがもっとも高品質であるのは間違いない。

ただ、その音で聴いてみてあらためて感じたのは、音の良さとは結局のところ、それをはじめて聴いたときの衝撃、あらゆる細部が手に取るようにこちら側へ切り込んでくるときの驚きのことを言うのであり、それを再現できなければいくら数値的に音が良いとされても無意味であるということだ。だから音の良さなんて、本質的には何かに届くというようなものでもないのだ。

まあ今の自分がアライグマであることを思い起こすと、その分際で何を言っても空しくて滑稽だ。アライグマ様がご高説を垂れて、なかなかご立派ですな、笑わせますなあと、嘲笑されるのが関の山だ。