歩哨の眼について

大岡昇平「歩哨の眼について」を読んだ。これは圧倒的にすばらしい。とても短い作品だが、三、四回くりかえして読んでしまった。硬質でドライな手触り感をあえて強調したような、まるで柄谷行人のようなテイストを感じる。

誰しもの恐怖や不安の根本にあるもの、そのメカニズムを視覚という要素から解析して、異なる光をあてるとき、読者はそこに浮かび上がるものを、はじめて見る何かだと思うはずだ。

人は、見たいものを見る。見たくないものは見ない。だから見るとは、じつはそれが見たかったということの発見だ。あるいは距離、遠くにぼんやりと見えているとき、それが見えていると思うやいなや、それは瞬時に手元の我が物になる。これもやはり、じつはそれが元々手元にあったことの事後的発見だ。

帰還後ゴッホの風景画を見て、何よりも感心したのは、遠景がよく描いてあることであった。眼路遥か、耕地と林の尽きるまで、線と面が水底の礫のようにはっきりと刻まれている。友達の画家に聞いてみると、ゴッホの絵では近景が却ってぼかしてあるそうで、そこが普通の視覚と逆になっているのだそうである。

視覚は、対象との距離に規定される。距離が、解釈の余地を生み、そのイメージはぼやけ、意味は複数個にダブる。

フィリピン諸島に駐在する日本軍兵士、歩哨は、見ること、見たものを報告すること、それが任務だ。敵の気配、曳光弾の光、それらを発見するべく、夜の闇や空を見る。

とても短い短編で、書きたい要素が並べられただけのような印象だが、それゆえ各部位が直接的に刺さるような鋭さをもつ。戦争についての小説のようでいて、そうではない。特殊な環境における特殊な体験を描いているわけではない。見るという行為にまつわる、人間を阻む限界のところが描かれている。

ゲーテランボー、中也のまなざし、自分の見たもの、見たかったもの、見たことを認めたくない幽霊のことを、端的に記載する。並べて、簡単に整理してまとめた、まるでメモ書きのような作品でもある。「ファウスト」に出てくる塔守リュンコイスが、本作の冒頭と結末を挟んでいる。見張り塔から見る者。見ることが義務である者、彼は見る。

距離も、視覚も、正確で、それ自体には判断の余地を残さない。それは物理的で決定的だ。だったら、それを受け止める私たちも同じはすだが、私たちは正確さに準拠するような在り方をしていない。私たちの幸福は、正確であることと必ずしも一致しない。

視覚はそれほど幸福な感覚ではないと思われる。ゴッホの細い遠景に、私は一つの不幸を感じる。彼の絵はそういう精密な画ではなく、一刷毛に描かれたような遠方の人物の形にも、奇妙な現実感があって、同じ不幸な悩んだ心を表しているように、私には感じられる。眼が対象を正確に映すのに、距離の理由で、我々がそれを行為の対象とすることが出来ない。それが不幸なのである。