牡蠣

パリで牡蠣が出回る時期、ユミと二人でしょっちゅう牡蠣会をしていた。一人一ダースずつ用意した牡蠣を各々黙々と開けるところから牡蠣会は始まる。丸みのある下殻を、ふきんを挟んで左手に持ち、右手に持った牡蠣ナイフを上と下の殻の間に二、三時の方向から突き刺す。最初は固く、本当にこんなものが開くのだろうかという気になるが、殻の端をぐりぐりとナイフで削り、ねじ込んだナイフの先端で上側の貝柱を切った瞬間、ふっと上の殻が軽くなる。中からじわっと溢れ出した海水がふきんを濡らし、牡蠣と上殻の間にナイフを滑らせるとほろっと上殻が外れる。この時殻の中に溜まっている海水は一度全て捨てる。置いておくと再び海水が溜まっていくのだが、この牡蠣が吐き出した海水には、牡蠣の甘みが染み出していて最初の海水より美味しいのだ。舌上に蘇る牡蠣の甘みに胸を膨らませながら牡蠣ナイフをねじ込み次から次へと牡蠣を開けていく喜びが、生々しく全身に蘇る。
 片方の貝柱を切られていない牡蠣はまだ生きていて、レモンをかけるとキュッと身が縮む。フランスのレストランでは生牡蠣は必ず生きたまま提供される。レモンをかけて動かない生牡蠣は死んでいるから食べてはいけないとすら言われている。日本ではオイスターバーであろうと出される生牡蠣は上下とも貝柱を切られているし、それどころか塩水で洗われていたりする。提供されるとき殻の中に海水も残っていない

金原 ひとみ「パリの砂漠、東京の蜃気楼」

上記をたまたま、図書館で読んだのはたしか七月頃だ。その場で読んで、それっきりだったのだが、なぜだかいつまでも記憶に残り続けた。そうだよなあ、やはり、日本のオイスターバーの生牡蠣はいかんよなあ…と思ったのもあるけど、それ以上に何か、ひじょうにそそられる文章だったのだ。それが今になって、治癒してなかった疾患のようにとつぜん頭の中いっぱいに広がって、そわそわと落ち着かなくなり、自分でもそれをやってみることで、湧きたったものに対して直ちに始末をつけたくなった。

日差しは強く、気温高そうだったけど、外に出てみたら意外とそうでもない。空気が澄んでいて爽やかで、歩いているだけで気分が良くなるような天気だ。

牡蠣を剥くためのナイフを買いに、河童橋商店街をのぞいた。行ってから気付いたのだが、この商店街は日曜祝日だと半分以上の店がお休みなのだ。とはいえ、目当ての品物を見つけることは出来た。

料理用の道具は見ているだけでも面白い。それは食物つまり生き物の形状の多様さに追従して作られたがゆえの面白さだ。面白さでもあり、ある種の身も蓋もなさでもあり、かすかな残酷さでもある。

御徒町に移動して、いくつかの食材とともに生牡蠣を買い求めた。先日缶ビールを買ったときに付属してきた保冷袋が役に立って、氷と共に買ったものを全部収納することができた。

日差しは午後を過ぎて傾くにつれ、体感気温を上げ始めた感じだった。さっきまでの、空気の澄んだ爽やかさが完全に消えてしまい、濁ったような暑さに満ちて、日向を避けて歩かずにはいられないようになった。

帰宅後、さっそく牡蠣を開ける。わりとあっさり、簡単に開けることができたけど、もっと上手くやりたい。あと十個くらい買ってくれば良かった。とはいえ一人で食すには充分な量を食べ尽くした。

しかしあらゆる貝類のなかでも、牡蠣の味わいは別格だ。いったいこれは味覚の感じていることだろうか。それを食することで、口腔内から食道を通って胃にいたるまでの体内の内壁が、成分的に変質してしまったかのようにさえ感じる。これほど強烈なミネラル感を体内にもたらす食物は、牡蠣のほかにはありえないだろうと思う。