行為と嫉妬

橋本治の読解によれば「行為」の力とは、「私は彼に負けてもいい」と思えることだ。私そのものを彼にぶつけたい、対象にぶつかった結果、私が砕けてもいいと思うことだ。それは対象への憧憬に基づく単純な衝動であって「そんな私」のメタ視点はない。

ここでの対象とは、彼でもあり美でもある。

「行為」の力とは、恋をする能力とも言えて、恋をする能力とは、対象を前にした自分が、それに負けたり死んだりしても良いと思うことのできる力である。

「行為」の力に欠ける場合、自分は対象を見て、対象に恋することができずに「嫉妬」する。「嫉妬」とは、自分が対象によって滅ぼされることを恐れる、対象を前にした自分が、それに負けたり死んだりすることの出来ない、そのことへの焦りや苛立ちである。

「嫉妬」する者は、やがて対象と対等の場所に立つことを回避するようになる。そして愛する対象が、自分ではなく他人に殺されるところを見たいと願う。それが権力者の欲望である。

「行為」の力とは、自分が対象と同化したい、自分が対象と等価でありたいと願う欲望の力である。それと同然でありたいと思うから、はじめて自分は、自分の死を許容できるようになる。

「嫉妬」する私は、もはや対象と自分との戦争状態だ。対象が、はじめて私に対する「革命」を仕掛けた。それに対して私は「嫉妬」と呼ばれる軍隊を動員し「反革命」のクーデターをおこして、事態を鎮圧する。

妄想の暴君たる私は再び王座に即き、そうなったとき最大の寵臣は失われていた。しかしそれでも構わない。「私」にとって重要なのは、「恋」でも「愛」でも「性欲」でもなく、暴君としてある「支配権」なのだ。それはまた、一般には「自己達成」と呼ばれるものでもあるが。

(「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」207頁)