友情

武者小路実篤「友情」を読んだ。一九二〇年(大正九年)刊行、今昔を問わず恋愛(片想い)こそ「症状」にほかならない。勝算のない戦いであるのは自明なのだが「病気」だから冷静な判断は不可能。若さゆえの狭量さ、自分勝手さ、思い込みの強さ、嫉妬心と自尊心、相手のなんでもない表情やしぐさに一喜一憂して、無意味に過剰な意味を感じ取って、想像とのズレに一々衝撃を受け、それでも気付けばいつの間にかまた夢想の領域に戻っている、そんな閉じた個人の心理状況の取り上げかた、期待と不安をあおる相手の内面の見えなさなど、古典的だけれども面白い。

恋愛というのは、そもそも相手と同じ土俵に上がることさえ難しいゲームだ。相手と私とのあいだに立ちはだかってる絶対的な不平等さ。いや、不平等という言葉さえ使うことができないような次元の相違。私が相手を見て、相手にも私をみてほしいのに、相手からは私がまったく見えてない。その事実を私は知ることが出来ないことを私が知る。これこそまさに「外部」との遭遇だ。

「友人」という善意の第三者ですら、その不均衡を見定めてバランスを考えて平等に調停することはできない。友人が審判の位置に立つことはなくて、そもそも審判という立ち位置が幻想にすぎない。私と友人とのあいだには「友情」がある。「友情」とはある種の契約だ。不均衡や不平等を無くしフラットに互いを批判し合い高め合うためのエビデンスなき契約だ。しかし恋愛感情は斜め上から当事者に襲い掛かってくるので、契約によって仮構されたフラットな地平も気付かないうちにズレてしまっている。

しかし、そもそもこのようなゲームの成立に躍起になれること自体が、近代以前には考えられなかった。そのような登場人物として存在できることがなかった。その意味では、これは新たに創設された土俵の上で成立可能になった新たな劇であるとも言える。新しい自由と孤独を知り、それを謳歌するとはつまりそういうことだろう。

本作はおそらく中流以上の家庭のご子息ご令嬢ばかりが出てくる小説でもある。大宮の従妹である武子は父の「妾腹」の子であったりもする。皆で優雅に卓球に打ち興じたり、鎌倉の別荘に集まってロメール映画ばりにリゾートな夏の日々を過ごしている。大宮はパリに旅立ち、その後、武子夫婦や杉子も大宮のあとを追うだろう。恋にやぶれた主人公の野島は取り残される。

ちなみに卓球といえば、日本画家の中村貞以の、舞妓が向かい合って卓球してる絵があったけど(「待つ宵」一九三〇年)、本作とは時代もシチュエーションもちょっと違うか。