グラフィティ

水を入れたバケツをぶらさげてその腕をぐるぐると回してみろ、バケツが上下さかさまになっても遠心力で水は落ちてこない、だから思い切ってやってみろ、と言われて、おそるおそるバケツを持って腕を回してみるが、そのまま上まで持ちあげる勇気が出ない。違う、そうじゃない、もっと思いきり腕を上げてバケツがさかさまになるまで回せと言われて、仕方なく無理に腕の角度を上げる。しだいにバケツが逆さまになり、一瞬、気持ちが怯む、その途端に水が落ちてくる。逃げようとして手放したバケツが床に転がって派手な音を立てる。あたりが水びたしになる。なんだよ、下手くそだなあ、なんでもっと勢いよく回さないんだよと詰られる。

なるべく遠くに投げてみろと言われて、野球のボールを手渡されたとき、もしかして自分が今まで一度もボールを投げたことが無いのではないかと気付き、たしかに投げ方をまるで知らないことを悟る。ただしテレビでよく野球選手が投球するときの、あの格好で投げる姿はかろうじて想像できる。とにかく見よう見真似で、あんな感じと予想して、その気になって投げてみる。後ろ手に持ったボールを思いきり前方へ押し出すように、腕に力を込める。上半身がつられて引っ張られて、腰が崩れそうになり、足がもつれる。ヨロヨロと身体が数歩前に動いて、ボールは自分の手前一メートルの場所にボトリと落ちてゆっくり転がる。なんだよ、下手くそだなあ、ボールも投げられないのかよと詰られる。

ボーリング場で、次はお前の番だぞと言われて、そのとき自分は、もしかしてボーリングするのが、生まれてはじめてではないかと気付き、たしかに自分にはその経験がまったくないことを悟る。今、なぜ自分がこの場所にいるのかさえわからないほどだ。ただしテレビドラマとか映画で、オールディーズをBGMにして、若い二人がボーリングをやってるシーンは見たことがある。それを思い浮かべて、とにかく見よう見真似で、こんな感じではと予想して、その気になって投げてみる。勢いをつけて球を持つ腕を後ろに振ったら、想像を遥かに越える重量に、穴に収まっていたはずの指が全部抜けて、ボーリングの球は、自分の向きとは逆方向へふわりと浮かんだかと思うと、ドスンと強烈な音を立てて床に落ちる。お前マジか、ボーリングで球を後ろに投げるやつをはじめて見たぞ、と呆れられる。

ダーツバーで、次はお前の番だぞと言われて、もしかして自分は、ダーツをするのが生まれてはじめてではないかと思う。そして確かに自分が、生まれてから今まで一度も、ダーツの経験がないことに気付く。仕方なく、興味も関心もないし当然一度も見たことのないダーツの世界チャンピオンを想像しながら、その気になって投げてみる。羽根の着いたあれが、的ではなく手前に落ちて床に刺さる。なんだよ、下手くそだなあ、なんでもっと上手く投げられないんだよと詰られる。今まで俺と一緒にダーツやった連中のなかで、ダーツボードじゃなくて床に投げたのはお前と彼女だけだぞ、と呆れられる。ふりかえると彼女がいた。

その彼女が、今の妻だ。 (この話はすべてうそです)