コンロン・ナンカロウ

コンロン・ナンカロウ(1912~1997)の名前を知ったのは相当昔のことだが、じっさいにその音楽作品を聴いたのは今日がはじめてだ。

楽器を上手に弾くためには練習しなければならない、事前の訓練と成果としての演奏。人間と楽器にはそんなスポーツ的、修行的な要素がどうしてもある。いや、そんな関係はもはや成立しない、電子楽器やソフトウェアによる音楽の氾濫がそれを証明する。今はどちらも成り立つ。音楽を聴くというのは、練習の成果や技術の洗練、つまり人間による技の成果を聴くということではないが、人間と無縁な物質の連鎖とか連携を聴くことでもなく、音楽の内包するもののなかでそれらは不可分だ、などと考えているうちに、コンロン・ナンカロウの名が、ふと思い出されたのだった。そこでスマホのAppleMusicで検索したら、ふつうに音源があるのだから、世の中便利になったというか、おそろしいことだ。

コンロン・ナンカロウの作品を聴いた。そしてまず、しかし、どういったら良いのか、これは…。

指の数に限度がある人間には、演奏不可能なピアノ曲があるということ。人間がピアノに対してもちうる可能性とか限界への嘲笑、あるいは反抗、同時に、限度のある世界で良かった、人間だったおかげで助かったという安堵感、一歩間違うと、全鍵盤が、常に鳴ってしまう、じつは、鳴ってしまえる、その可能性への怖れ、怯え、それゆえの蛮勇、バカな子供の、きちんとした経路を守らずに、周りが止めるのも聞かずに直接手で触ってしまう、その乱暴で幼稚な手つき、が、そのまま百倍速にされたもの。

人間ではないということに驚いてる、などということ自体に驚いてる。Study No. 41aとか、あたまおかしい、マジで、これ、どうなってるのか。。

笑いたくなる要素は、かなりある。おお・・と興奮したくなる要素も、相当にある。これはすごい、という言葉も、容易に思い浮かぶ。嬉しいとかよろこびとか、速いとか遅いとか、音楽に付きもののそういった「感情」を喚起させる、そんな要素も、たしかに認められるとは思う。

しかし、そのどれもが、微妙に自分の本心からずれているというか、その言葉だけで済むとは思えない、何か騙されてるような、隠された部分の説明を聞かされないままあしらわれてるような、ある疑わしさが気持ちの裏側に貼りついてしまうのを、気にしないわけにはいかない。

それは自動演奏だからであるとか、人間味がないからであるとか、そういう話ならつまらないの一言で終わるだけなのだが、ことはそう単純ではない。そもそも僕は、ピアノの自動演奏というものを、生まれてはじめて聴いたのだろうか。そのことからして、思い出せなくなるような、これはそんな感じなのだ。

どこまで行っても、音楽とはそれが人間の手によるものだというイメージから、逃れることは出来ないのだなとも思う。たとえばテクノというジャンルの音楽を、いっさい人間味のない無機的な機械的な音楽であると感じたことは、僕は一度もない、もちろん、ものすごく情熱的な音楽だとも思わないが、それでもあれは、一種のソウル・ミュージックだとさえ思っている。それはミニマルだろうがクリックだろうがノイズだろうがパルスだろうが、全部そうだ。人間の匂いというか気配、音楽である以上、そこは避けがたい。

ただしコンロン・ナンカロウの音楽からは、そのように聴いてしまうことへのためらいというか、そのように聴いてしまうことの居心地悪さ、座りの悪さが、強く感じられるのだ。その意味で、この音楽を、いつもの音楽と同じようには聴きたくない、今までの音楽と同列のものとして、これを扱いたくないとの思いが、自分のどこかにあるようなのだ。

音楽が、音楽であることの意志というか、音楽として在ることの自己同一性というか、音楽が音楽であることのよろこびのようなものを、自らの内側にかかえているのだとしたら、コンロン・ナンカロウの音楽には、その要素がとても薄いような気がする。コンロン・ナンカロウの音楽は、自らが音楽であることを恥じているというか、自らが音楽として聴こえてしまうことに不服をもっているというか、できるだけ音楽に似ないよう懸命に振る舞っているみたいな、どうもコンロン・ナンカロウの音楽が、僕にはそんな風に聴こえるのだ。

むしろコンロン・ナンカロウではないすべての音楽には、音楽自らが音楽であることの幸福が含まれている、悲壮な曲とか葬送曲とか、そういったことに関係なく、音楽は音楽であることをよろこんでいるはずだ。そのことをコンロン・ナンカロウの音楽が気付かせてくれたようなところもある。

何匹もの羊の群れが、目のまえを通り過ぎて行った、これまで数え切れないくらい沢山の、色々な姿かたち大きさの羊たちを見送ってきた。しかし今日とつぜん、一匹だけ、羊のように見えるが羊とは似て非なるものが、ふいに通り過ぎた。そんな感じに近い。

保坂和志が引用した、メルロ・ポンティの言葉

【彼は、自分がソナタに奉仕しているのを感じ、他の人たちは彼がソナタに奉仕しているのを感じるのであり、まさにソナタが彼を通して歌い、あるいは演奏者がそれについていくために「急いで弓を握りしめ」なければならぬほど突然ソナタが叫び声をあげるのだ。(見えるものと見えないもの)】

これに対して、コンロン・ナンカロウの音楽は、そんな言葉の生まれうる土壌から、徹底して遠く隔たろうとするかのようでもある。しかしそのことで、むしろ表現たりうるものになっているとも言えるだろうか。コンロン・ナンカロウの音楽もまた「突然叫び声をあげ」ないともかぎらないような気配が感じられるのだ。


Study No. 41a Conlon Nancarrow

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