マーク・ジュリアナ ドラム・ワークショップ


東京ジャズフェスティバルに行ったことはないというか、毎年いつやってるのかも知らないくらいだが、今日マーク・ジュリアナ ドラム・ワークショップというのがやる(無料で観れる)というのを聞き、東京国際フォーラムまで行ってきた。


建物にはさまれたスペースにフェスっぽく色々な出店が出ていて、その一角にステージがあって、ドラムセットが設置されている。


登場したマーク・ジュリアナ。最初に素晴らしいドラムソロを披露する。観客大喜び。しかしこの後、マーク・ジュリアナさんがマイクを持って喋り始めると同時に、まさにワークショップというか、楽理の講義みたいになる。(しかも話自体は、それほど面白くない感じの。) 


とてもシンプルなところから始めましょう、とか言って、スネアをだだだだだんと5回叩く。


では、この単純な音の、まずはスピードを変えてみましょう、と言って、だだだだだん、とやった後、だん、だん、だん、だん、だんとゆっくり叩く。


さあ、これは同じようなものの二つの違いに思いますか?それとも全く異なる二つがあるように思いますか?僕は、全く異なる二つのように思うのです。とか言う。


さあ、さらに今度は音色を変えてみましょう。ドラムセットは異なる楽器の集合体です。異なる音を組み合わせると、こうなります、とか言って、どん、たん、ぱん、どん、どん、とか、ちっ、どん、ぱん、ちっ、どん、とか、音を変えてやる。


さらにこれではどうでしょう。今度は強弱を変えてみましょう。叩く力を少しずつ買えるのです。ドン!、ドン!かっ、ちっ、ドン!、とか、ぱん、ドン!ドン!、かっ、かっ、とか、ニュアンスを変える。


さあ、それでは以上の三つの要素をすべて織り込みながら、今度は「音楽的」にやってみましょう。全体的に「音楽的」になるように、やってみるのです。一応の目安として、足でハイ・ハットを定間隔で刻み続けます。でもそれ以外では、今までどおりの五連打を基調にして、速さと、音色の違いと、強弱を変えるだけで、やってみます。と言う。


ここまでは、別に、そんなに面白くないのである。「いいから早く、ソロプレイやってくれないかな」とか思いながら聞いている。なんというか、すごく真面目というか、もの凄い超絶テクをひけらかす系な要素が皆無すぎるし、話の内容も、まあ、なんてことないし、炎天下で暑いし、黙って棒立ちになってしまう。


しかしながら、この後、正確な、ちっ、ちっ、ちっ、ちっ、の刻みの中で、まさに、驚愕すべき事態がおとずれる。


…いや、要するにさまざまなバリエーションの「だだだだだん」というだけなのだが、何が凄いって、これはもう人間一人がやって良いことではないだろうと思うような、おそろしく非人間的な世界である。


ある音の、早いヤツ、ゆっくりなヤツ、強いやつ、弱めなやつ、混ざったヤツ、その他いろいろ、が、一挙に、うわーっと、目まぐるしいスピードで、いや、なんの変哲もないスピードかもしれないが、とにかく一挙に、ほとんど同時、と言いたくなるような一挙さで、あれよあれよというまに、右から左から押し寄せてくるようなのだ。


異なるもの同士が共存している状態というのが、まさにこれなのではと思った。言葉にすれば手垢に塗れてはいるが、結局そういう状態をあらわすことができている「作品」というものには、滅多にお目にかかれないし、そういうものを体験するたびに、うわーすげー!と驚くのも、二十年も三十年も前から何も変わらないのである。なにしろこれは本当に凄い。音楽だから、鮮度というものもあるので、五年後十年後に聴いたらまた違う印象をもつかもしれないが、とりあえず今は最強に凄い。これはあくまでも、人前での説明を前提にした、ごく単純なやりかたの実験演奏に過ぎないのだが、それだからこそ、その異様さが剥き出しになっているように思えた。


ほとんど、呆然とした。ある意味、音楽なのに、絵画を観るときの体験に近い感じすらした。そういう感覚自体が、はじめてのことだ。


しかし人間とは、ここまで徹底的に「非同期」でいられるものなのか。コンピュータが実現することのできた、本物の非同期的な時間というものを、今遂に人間も達成した、ということとも…ちょっと違うような気もする。とにかく、こんなドラム、聴いたことない。ほんの一分か二分くらいだけだったのだけれども、真に驚愕した。これはもう、スネア一発程度に過ぎないような、なんでもないはずの音一個の価値が、異常に高騰してしまっているというか、そもそもこのドラマーはソロプレイで「どこかで聴いたことのあるようなフレーズ」というものがほぼ皆無であり、むしろミスショットではないかと思われるような中途半端な鳴りすら、しっかりと役割を担って聴こえてきてしまうような、音自体が高度に意志をもって何かの元に集まろうとしているかのような感じもあって、いやある程度すごいだろうとは思っていたが、やはり凄い。


でもやっぱりジャズだと逆説的にどうしても人間の問題になるのだ。ジャズって結局「演奏」だからな。でもコンピュータも素晴らしい即興を、もちろんできるようにもなるだろうが、そもそも即興というものに、我々は何を聴いているのか。即興演奏をいうものが、もともとその音の背後に潜在的なものを多数読み込んでいるものなのだろう。だから、半端じゃなく感動させられるような演奏もあるのだ。その部分までをもコンピュータが「再現」する日が来たら、それはそれで絶対聴きたい。そしてその数年後かに、また人間がそのコンピュータの演奏をガッツリと聴きこんで、また「人間的」にやり直すのではないだろうか。そうして、今後はしばらく、人間とコンピュータ同士で、交互にやりあうのではないか。


でも今回の人間側の肝としては、前述の『今度は「音楽的」にやってみましょう。全体的に「音楽的」になるように、やってみるのです。』ということばの「音楽的」という部分だ。これは、いったい何なのか。「音楽的」じゃないやり方も、できるのか。「音楽的」というそのとき、いったい何を思い浮かべているのか。