日本閣

山崎記念中野区立歴史民俗資料館(通称=れきみん)企画展「東中野の日本閣-婚礼場の100年-」を観た。

日本閣、それは結婚式場である。…なぜわたしと妻は、二十年前に、自らの結婚式会場として日本閣を選んだのか、それはいまだによくわからない。当時でも人気のある主流な場所はホテルやレストランだったはずで、日本閣のような結婚式場で挙式・披露宴を行うというのは、すでにかなり古臭くて"ダサい"選択だったはず。だが当事者の我々には、これといって結婚式に対する深い考えも願望もなくて、とにかく早いところ決めるべきことを決めてしまいたくて、何軒か回ったうちの一つが、たまたまその式場だったのだ。あと季節外れの時期で値段が安かったのは決定的だったと思う。

そもそも「結婚」というのを、我ながらまるで冗談みたいな「似合わないことをなぜか唐突にはじめてしまった二人」の取組みに感じていたところもある。そういえば当時住んだアパートも、今から思えばなぜあんなアパートで即決したのか、探せばもうちょっとまともな物件もあったのでは…などと思いもするようなところだったけど、あのときも、とにかく早く決めてしまいたいという思いだけで、ある意味まるで「夜逃げ」のようなスピード感で、飛び込んだ不動産屋がその日のうちに案内してくれた数軒のうちのひとつに早々と決めてしまって、親同士を合わせて、諸手続きして、ばたばたと式の準備を進めてと、なにしろそれら一連のことは、コンプリートすべき目の前のタスクにほかならず、だからむしろ一つ一つが出来るだけわかりやすさ、もっともらしさをまとっていてくれた方が良かったのだとも思う。二十年も経った今なら「もっと間取りが」とか「もっと美味しい店で」とか色々考えるだろうけど、当時そんな発想はいっさいなくて、よくわからない謎の焦燥感に駆られていた。

この世には、グランメゾンとか一流ホテルというものがあって、片やその「代用品」(ニセモノ)としての、結婚式場がある。コロナ時代を経ても、披露宴やパーティーの需要は無くならないだろうし、一流のレストランやホテルはこれからも存続するだろうけど「代用品」としての結婚式場は、すでにその役割を終えた、ということになるだろう。

「それ風なもの」や「廉価版」は無くなってしまったけど「本物」は残ってる。「本物」を利用できる家柄や経済基盤をもつ人々はこれまで通りだが、そうではない庶民すなわち「代用品」のかつての利用者はもはやそれを利用しないし必要としない。しかし「本物」を利用できるわけでもない。本物と代用品とか、理想と現実とか、その区別の成立根拠を見なくなってしまって、日本閣の向こう側にあるのかもしれない(在るのか無いのかはっきりしない)何かを、想像することもなくなった。日本閣そのものが「本物」に近づいていって、時間の経過と共にいつしか「本物」(本物そっくり)になってしまえれば、明記すべき何の血統も出自もないままに、それを実現できれば良かったのだが、それはかなわなかった。ゆえに日本閣は消える。

日本閣は、大正九年(1914年)に創業。釣り堀の経営からはじまって、そのあと蕎麦屋になって、旅館になって、催事を請け負うようになって、やがて冠婚葬祭を専門とする施設へと姿を変えていった。戦争で敷地内を焼かれ閉業したが戦後に復活、五十年代には労働争議の影響で再び閉業したがまた復活。高度経済成長時代に足並みを揃えるかのように結婚式場として事業を拡大したが、その後の時代やニーズの変化と寄り添うようにコンセプトや施設を改装しつつじょじょに縮小し、ついにコロナ禍の2020年に閉業と、如何にも近代・日本な歴史を刻んだのだな…と。

おそらく昭和30~50年代頃になるのかと思うが、その全盛期は敷地内にプールがあって、プールサイドでは夜な夜な宴会がくり広げられ、日本庭園風の庭には人工の滝が落ちていて、それを見下ろすようにしてウェディングパレスなるビルがそびえ立っていたという。ちなみに我々が挙式したのは2001年で、当時はそこまでド派手な空間ではなかったような気がするが(正直ほとんどおぼえてない)、掲げられた年表によれば、日本閣が「ロココ調時代」から「リゾート時代」へとイメージチェンジしたばかりの頃だったらしい。我ながら笑うしかないような、昔見て、今でも見たことだけはおぼえている奇妙な夢みたいな記憶だ。